エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

時間と存在

連休最終日。朝から大森荘蔵の「時間と存在」を読む。

時間と存在

時間と存在

「時は流れず」に接続する大森本。第一章は時間論。第二章は存在論。第三章は脳と意識の問題。「時は流れず」を読んだときの澄んだ驚きはなかったが、大森荘蔵らしい快い語り口。「哲学に長いこと触れていると考えはむしろやせ細ってくる」という感じを持つことが多いが、大森本では日常感覚で読めるので消耗が少なく、けれども栄養分がある。

第一章では、点時刻への疑念から出発して「アキレスと亀の逆理」を解消しようとするところが読みどころ。

「点時刻への疑念」とは、典型的には、点Xがある時刻に点Aにある(しかるべき時間たつと点Bに移動する)ということの意味の問い直しである。これらは知覚されるものではなく、考えられるものなので、「点Xが点Aにある」というのはこの実体Xが付帯的属性を持つということではなく、X=Aということにならざるを得ない。そこからA≠BなのにA=Bだという矛盾が生じてくる。

「図形運動は矛盾を含むという結論は、二千年の間人々の挑戦を拒み続けてきたあのアキレスと亀パラドックスの核心であると思われる」
「ゼノンの逆理の核心は、無限の中間点を通過できないから目標点に到達できない、ということである。そして無限箇の中間点を通過できないのは、限りない中間点をすべて通過し終えるということが「限りない」ということに矛盾するからである。つまり、「無限」という概念の意味からして次々と無限の点を通過し終える運動は不可能だ、というのがゼノンの逆理の骨格なのである」
幾何学的に表現する限りという条件付きで運動は不可能なのである」

大森荘蔵がすすめているのは、点時刻ということが無意味すれすれであり、それを前提にしたゼノンの議論の全体が近似的無意味であるから、その逆理を有意味な逆理として受け付ける事を拒否するという態度である。

第三章は、「唯脳論」に対する異議申し立てとしての「無脳論」、および「脳から意識が出てくる」ことを説明できない脳生理学の袋小路に対して、「因果関係」に代わる「重ね描き」という考え方を使う事で問題をなかったことにしてしまえる、という話が中心である。「重ね描き」というのは、日常経験を基本にして「考えられたこと」を重ね描くことで議論の空回りを防ぐということらしいが、どうもうまく把握できなかった。

因果関係以外の考え方として、一度に全体を見通す変分法的見方があると思っていたが、「重ね描き」というのはそれとも違う3つめの考え方だ。もう少し考えて理解しておきたい。

この第三章の議論が深められて、「時は流れず」では主客対置の撤回というところまで行き着くわけだ。