エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

時は流れず

日曜の朝というのに、Brain Science PodcastでBuszakiの「脳のリズム」のインタビューを聞いて活性化されてしまった。

大森荘蔵の「時は流れず」を読む。

時は流れず

時は流れず

第一部が時間論
第二部は他我問題(他人の心がどうしてわかるのかという問題)
第三部は意識の問題(神経科学上の難問である心身問題)

第三部を読むのは特別な経験だった。自分の頭をハードディスクにたとえて言うと、読みながら再フォーマットされているような気分だった。

主観と客観の対置(区別)、およびそれに基づく意識の問題は、神経科学で最高の難問となるだろうと見なされている心身問題(mind-body problem)と切り離せない。そのこともあり、「これは哲学なんだぞ」と用心しいしい読んでいったのだが、あっという間に引き込まれて最後まで連れて行かれてしまった。

大森荘蔵の結論は、「意識という概念はでっちあげだ」というものだ。しかもそこに至るまでの論証が、難解な言葉も出ず、高踏的でもなく、ごくごく自然だ。

意識という欺瞞を捨ててみれば、自然と私とは地続き(立方体とその一面)であり、晴朗な解放感があるという。

これはどこかで最近読んだな、と思ったら、井筒俊彦の「意識と本質」で出てきた話だ。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20080923/1222146172
「禅の悟りとは無分節の世界を認識する」だというくだりは、ここで大森荘蔵が言っていることとそっくりではあるまいか。

20歳の頃、よくあるはなしだが自己意識に悩まされて少しばかり禅に凝ったことがある。たぶん夏目漱石の読み過ぎだったのだろうと思う。「小我」というものを一端忘れると「大我」に至るとあって、何だかそれらしい気分になって、「晴朗な解放感」めいたものを経験したことがある。その後、その経験はどうも生かされていないが、それを連想した。この辺りも大森荘蔵の文章の力であろう。

大森荘蔵の文章力は定評があるそうだが、それにしてもすごいと思う。枠外ともいえる奔放な思考のくせに、その記述は「地を這うよう」というか、「日常性豊かな」というか、とにかく肩の凝らない文章である。いわゆる思い入れたっぷりの名文の類ではなく、柔道の名人があたかも重さがないように動いているような軽みである。にもかかわらず重量級のパンチを決めてくるような。

「主観−客観の構図が全く健康な面体分岐の定義関係の基本的誤解から生まれてきたことの明確ななまなましい傷跡がいつまでも残っている。それは、外部世界が意識主観に投影または表象される(意識される)メカニズムが何かを問わざるを得ないという答弁強迫である。(中略)だがこの超えがたい難所は、実は面体分岐の定義的関係を外界ー意識という実在的で因果的関係に曲解する誤りが生んだ幻の難所なのである。面体分岐の定義的関係にとどまる限りは、この答弁強迫の難所など全然存在しない。表象とは三次元立体の定義的要素に過ぎず、そこに何かを問う問題は初めから存在しないのである。椅子という三次元立体の意味の要素としてのその知覚表象は初めからそこにあるのだから、そこに至る経路などは初めから無意味なのである。換言すれば、哲学史上解決不能と思われた心身問題は、面体分岐を定義関係とする限りは問題としては抹殺されるのである」
「しかしカントやフッサールにように難解で余りに哲学的な方法を辛苦して模倣する必要があるだろうか。ないだろう。というのは、ただ哲学的であることをやめ、面倒な主客対置などはどぶに投げ棄てて、日常の実生活にもどりさえすれば、懐かしい外界の事物が昔どおりにわれわれの手や眼の届くところにちゃんとあるからである。家具や人体やペット動物、それらにわれわれは直接手に触れ直接視覚的に触れている。それらは表象でもなければ観念でもない。ましてニューロンの発火などでは絶対にない。机そのもの、家族そのもの、犬猫そのものであることは、われわれの日常経験の事実、生の事実なのである。もちろんこの日常経験の中に面体分岐は常にあるし、そこから哲学的な主客対置の思いにふけることは好みのままにできる。しかしその哲学の道を拒んで哲学をいわばエポケーして普通人の生活に専念することもできる。その普通人の生活では、主格対置の過度の支配は、現に見るごとく賢明にも避けられている。そして哲学的に膨張した主格対置は、縮小してもとの安全で実務的な面体分岐に帰るだろう」
「では、主客対置を撤回すれば何が起こるというのか?何も起こらない。もともとの静穏な事態が復元されるだけである。余計な騒ぎのもとである主客対置や主観内部対外界といった分断が消失した跡には、われわれの経験の所与としての面体分岐が明瞭に視界のなかにその姿を現す。そしてそこには脳生理学の治療不能の宿あであった外界物体の認識可能性が直下に見える。すなわち、知覚風景としての面分肢は立体的事物の意味である体分肢の構成要素として始めから意味されているゆえに、知覚風景を持つことは即ち立体事物を認識すること(の少なくとも一部)にほかならない。それゆえ、無理に外界から意識内部への作用流入を追及して脳の研究を始めたり、脳状態から外界への逆方向の不可能に悩んだり、簡単に言えば脳生理学の一切が不要になる。脳のことは一切全部忘れて静かな経験に安住できることになる。
その静穏な経験は脳生理の騒音から解放され、かつまた主客対置の人工的境界の汚染も清掃して、雲ひとつない晴朗な本来の人間経験である。山川草木に対して、それらを見る主観などは跡形もない。そこにあるのは、もともとの経験そのものである山であり草木の茂りである」

ああ「天地有情」と大森荘蔵の最後のエッセイに書いてあったのはこのことかと気づいて少し嬉しくなる。
星4つ半。