日垣英語塾13日め。大変だがいいシステムだと感心する。やはりシステムは大事。
ヤウ/ネイディスの「見えざる宇宙のかたち」を読む。
- 作者: シン=トゥン・ヤウ,スティーヴ・ネイディス,水谷淳
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/03/28
- メディア: 単行本
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ひも理論の数学的枠組みの中心にあるカラビ=ヤウ多様体の生みの親による「ひも理論と幾何学の旅路」。名著。
たとえばこんな格好いいことは、生みの親にしか言えないことだ。
「カラビ=ヤウ多様体がどこへ連れて行ってくれるのかを近いうちにもっと感じ取れるようになればいいのだが。私はカラビ=ヤウ多様体に愛着を持っていて、30年間その愛着は衰えていないが、この問題に対しては広い心を失わず、マーク・グロスが言った『答えを知りたいだけだ』という言葉の精神に従おうという心積もりだ。もし最終的に、ひも理論にとってカラビ=ヤウ多様体よりも非ケーラー多様体の方が価値が大きいことがわかったとしても、それに不満はない」
ひも理論はヤウに言わせるとこんな直截な言い方で表現できる。
「空間を分割するもっとも簡単な方法としては、きれいに切って四次元の部分と六次元の部分に分ける。基本的にそれがカラビ=ヤウによる方法だ。私たちは、それらの二つの部分は完全に分離していて、相互作用しないと考えている。したがって、10次元時空は四次元部分と六次元部分のデカルト積であり、第一章で述べたカルツァ=クライン型のモデルによって視覚化できる。その描像では、無限に広がる私たちの四次元時空は無限に長い直線に似ているが、その直線にはわずかに太さ―余剰な六次元が収まった微小な円―がある。そのため実際に存在するのは、円と直線とのデカルト積、すなわち円筒だ」
ただ、そのカラビ予想というのがこういう代物なので、うーんわかったとはなかなかいかない。
「以前のポアンカレ予想のように、カラビ予想も、次のようなたったひとつの文に要約できる。『消滅する第一チャーン類をもつコンパクトなケーラー多様体ではリッチ平坦な計量が許される」
「さらに厄介な数学的難問も存在する。もっとも単純なモンジュ=アンペール方程式には2つの変数しかないが、多くはもっと多数の変数を持っている。それらの方程式は双曲型を超え、その解についてはわかっていることはさらに少ない。『なじみのある3種類を超えたそれらの解については、どんな物理的イメージにも頼ることができないため、何一つ手がかりがない』」
むしろ元物理屋としては、こういうところはフックがあって楽しく読める。
「実は一般相対論では、質量は難解で驚くほど理解し難い概念だ。その難しさは、この理論そのものが本質的に非線形であることによる。理論が非線形であるため、重力も非線形になる。そのため重力は自らと相互作用し、その過程で質量を生み出す―扱うのが特別厄介なたぐいの質量だ」
「こうした視点から見ると、カラビが示した疑問は、アインシュタインの一般相対性理論と密接につながる。すなわち、『空間にまったく物質がなく真空だったとしても、私たちの宇宙に重力は存在しうるだろうか』ということだ。もしカラビが正しければ、物質がなくても曲率が重力を生む」
「ストロミンガーは次のようにまとめている。『超対称性がホロノミーへの橋渡しとなり、ホロノミーがカラビ=ヤウへの橋渡しとなった』―SU(3)ホロノミーはカラビ=ヤウ多様体を意味する。言い換えると、アインシュタイン方程式を満たしたいなら―そして余剰次元を隠したまま観測可能な世界の超対称性を満たしたいなら―カラビ=ヤウ多様体が唯一の解である」
「この対応関係は、いくつかのケースにおいて重力理論(ひも理論など)が標準的な場の量子論(正確に言うと共形場の理論)と完全に等価であることを示しているという。量子重力の理論と、重力を全く含まない理論が関連しているという驚くべき対応関係だ」
こういう「ある意味怖い(でも実は人類の寿命はとっくに尽きているので、怖いというのを超越している)」話もでてくる。
「スタンフォード大学の宇宙論学者アンドレイ・リンデによれば、現在私たちには4つの次元しか見えないが、『長期的には、宇宙は4次元ではいたくない。10次元になりたいのだ』。そして十分に長い時間待てば実際に10次元になる。コンパクト化された次元は短期的には問題ないが、長い目で見ると宇宙にとって理想の状態ではないとリンデは言う。『今私たちは建物の屋上にいるようなもので、まだそこから飛び降りなくてはいない。自分の意思で飛び降りなくても、量子力学が私たちに代わって手を出し、最低エネルギー状態へと突き落とすのだ』。」
最後のあたりでこういう引用が出てきて、しみじみ面白い世界だと思う。
「タウベスによれば、数学と物理学で道具は同じかもしれないが、目的は違うという。『物理学はこの世界の研究であり、数学は可能なすべての世界の研究だ」