エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

私のマルクス

佐藤優の「私のマルクス」を読む。

私のマルクス

私のマルクス

鈴木宗男事件がらみで外務省のラスプーチンという異称をもらい逮捕され、獄中生活の後、「国家の罠」で話題となり、独特の視点から思想界に話題を提供し続けている異能人、佐藤優が大学院卒業までの自分の思想形成史を記した本だ。

佐藤優の本は面白いのですでに何冊か読んでおり、その思考の深さは認識していたが、その思想形成史は実に興味深かった。浦和高校での日々も同志社大学神学部での日々も生き生きとまた細部まで描かれている。

私は学生運動にもマルクス思想にもほとんど共感するところがないが、それでいてこの思想的自叙伝を面白く読めたのは、「自分の頭でつきつめて考えよう」という佐藤優の志向と、それを十分に醸成するにたる(時代的)環境に対する好意から来るものだと思う。思想論議を戦わせる濃密な友人関係は、随分な程度の差はあるが自分も経過してきたことなので特にまばゆい。

「この労農派マルクス主義が母と伯父を通じて幼い頃から私に刷り込まれている事に気づいたのは、2002年に小菅の東京拘置所独房でマルクス主義についてノートにメモをとりながら整理しているときのことだ。人が知的に成長して新しい思想を獲得するというのは幻想のように思える。実は、若い頃、いちばん初めに触れた世界観型の体系的思想、要するにこの世界がどのようになっていて、生き死にの原理は何かという思想から人は離れることはできないという考えに私は傾いている。それが私の場合、母を通じて受けたカルバン派のプロテスタンティズムであり、母と伯父から受けた労農派マルクス主義なのだと思う」
ここを読んでまず思ったのは、自分にとってのその「生き死にの原理」とは何かということである。いくつかの情景は浮かんでくるし、それが自分の諸思想に対する好悪を決めていることは自覚しているが、私の場合はそれ以上のものではないようだ。

マルクス主義がその良い例で、唯物史観のような作業仮説が、ロシアでは不動の真理として受け止められ、グロテスクな物語を作り出していったのだ。自分の頭で考え、納得がいかないことは納得いかないと公言する習慣を作っておけば、少なくともグロテスクな物語作りに無自覚に参加することにはならない。外交官になってから、外交的な駆け引きや、外務省内部の抗争で、私も何度かグロテスクな物語を作ったことがあるが、そのときには、自らの行為がグロテスクであることを自覚していた」
このあたりのことは自然科学の研究をやっていてもひんぱんに起きる。内容を意識しながら思考することはしんどいことではあるが、大切だ。

「渡邉先生は「思想の力」ということをいつも強調していた。それに対して、哲学についてはあまり語らなかった。哲学とは”フィロ”+”ソフィア”つまり知に対する愛であるので、制度化された学問と親和的であるのに対し、思想は人間の生き死にの原理で、どこか制度化できない、特に大学における学問の枠組みからはみ出してしまう何かをもっていると渡邉先生は考えていた」

宇野弘蔵のように、このような理論と実践を切り離し、革命運動の動機付けをする唯物史観を「体系知(科学)としての経済学の外にもってくるという組み立ては、マルクスの言説とキリスト教神学を結合するのにとても役に立つ。唯物史観の代わりにキリスト教倫理、実存主義などをもってくれば、自らの世界観の中にマルクスの言説を包摂することができる。私たちのようにマルクス主義キリスト教をつなげようとした事例はそれほど多いとは思えないが、政治的にはマルクス主義を採用し、世界観としては実存主義を採用した「マル存主義者」は結構多かったと思う」

ところで、私は自分の子ども達に何らかの「生き死にの原理」を示してやっているだろうか。自分にそれをすることができるだろうか。ちょっと考えてみなければならない気がする。