エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

生きづらさの中で

佐野眞一甘粕正彦 乱心の広野」を読む。

甘粕正彦 乱心の曠野

甘粕正彦 乱心の曠野

満州の夜と霧 第2部。
人間はこんな生きづらい状況の中でも自分を削るようにして生きていけるものかというのが読後の感想。

「着任した部隊まで探し出して手紙を出す甘粕の生真面目さは、片倉をほとほと困らせたに違いない。底意のある手紙ならば読み捨てればそれで済む。だが困ったことに、甘粕の手紙はいつも過剰なほどの赤心が綴られている。甘粕はその純粋さで周囲の人たちを磁石のようにひきつけた。だが甘粕の純粋さはその反面、それ以上に多くの人たちを辟易させ、甘粕の許から去らせる原因となった」

「口絵の写真を見てもらっても分かるように、甘粕ほど年代によって顔つきが変わった人間は珍しい。その変貌はおそらく、周囲から注がれる容赦のない後期の目を跳ね返すため、甘粕が自分の内面を絶えず深耕することによってもたらされたものだった」

満州の夜と霧 第1部の里見甫の得体の知れなさにくらべると、甘粕正彦の生きづらさには理解できるものがある。

それにしても近代国家というのは、本来はこれほどに個人に犠牲を強いるものなのだろうと思う。戦後の日本の国家の軽さは、むしろこれが異常な幸せ(司馬遼太郎が絶賛した幸せ)なのだろうが、昨今のいろいろを見るにつけて別種の生きづらさが、世代を問わず亢進しているようなのは、どういう人間の本性によるものなのか。結局、合理性では人間は救われないという当たり前のことに話は戻るのだろう。