エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

井筒俊彦と禅

井筒俊彦の「意識と本質」を読む。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

東洋思想を誰よりも広い視座で理解していると評される井筒俊彦のことはずっと気になっていた。ただ、どうもいいきっかけがなくて触れたことがなかった。

松岡正剛のインタビュー記事の注で「東洋思想の「共時的構造化」を試みた代表作」としてこの本のことを知り、ちょっとかじってみるつもりで図書館から借りてきた。

他の本を読む合間に少し頭のところを読み始めたら気になりだして、そのまま読了した。すごい本だった。

タイトルから判断して「意識について書いてあるなら、神経科学を理解するのに何か役に立つかも」程度の不純な動機があったのだが、いきなり「本質などない、本質など虚妄だ」と正面からやられてすけべ心は吹っ飛んでしまった。

とにかくイスラム哲学、カバラ思想、インド哲学大乗仏教、禅、日本思想までを「本質」をキーワードにして見事に分解して組み上げているのが圧倒的だった。

商売柄、因果性やら合理性やらにがんじがらめになっていたが、そういう枠をらくらくととっぱずしたところで議論を展開できる哲学の凄みを再認識した。この間、Iさんと飲んだときに「哲学自体はつまらないけど、とにかく哲学者は考える道具(フレームワーク)をたくさん作ってくれているので、役に立つなあ」と言われて、「そうだそうだ」と答えたものだが、その前にこの本を読んでいたら「ちょっと待ってくれ」と言っていただろう。

特に、禅については、はじめてその考え方が分かった気がした。

「禅も「本質」など絶対に認めない。「本質」という虚構に頼って、それによって分節しだされた存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮かぶ仮象に過ぎない。それなのに、現実の事物にどっしりした手ごたえがあるとすれば、それはもともと、「本質」を通した存在分節のほかに、いわばそれと密着して、それとは全く異質の、「本質」抜きの分節が生起しているからであるに違いない。「本質」による凝固性の分節ではない、「本質」ぬきの、流動的な存在分節を、我々一人一人が自分で実践的に認証する事を禅は要求する」

「絶対無分節者でありながら、しかも同時に、それが時々刻々に自己分節して、経験的世界を構成していく。その全体こそが禅の見る実在の真相だ」

これだけの引用では難しそうだが、井筒俊彦は、分節I→無分節→分節IIという図式で禅の行き方を明瞭に示している。いやあすごかった。