今日も3時過ぎにたたきつけるような雨が降った。夕立の涼しさとはいかないのはどういう具合によるのだろう。
ブログを散策している途中で小島寛之の名前を知り、著書の「数学迷宮」を読む。
数学迷宮―メタファーの花園に咲いた一輪のあじさいとしての数学
- 作者: 小島寛之
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 1991/09
- メディア: 単行本
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カントールの無限へのアプローチをさまざまな角度から描いてみせた本だ。2章からだんだんよくなって来て、最終の4章では感傷すれすれの筆致でカントールへの共感・あこがれを語る。
「数学の仕事の第一は、いかにして”無限を有限に引き戻すか”ということです」
「ゼノンのパラドクスの本質は一言で言えば、無限分割の不可能性と無限の手続き・行為の不可能性です。無限の行為は完遂できないものではないか。できるとすれば、それは有限だったということではないか。さらにはひとつの線分を無限の点に分割することは可能なのか不可能なのか」
「微分は極限操作によって行われるが、その際微小量Δtを0に近づける時、時間の方向とはまったく無関係に、例えばジグザグに近づけてもよいことになっています。ということは微分の定義式は確かにその瞬間ばかりでなく、その近傍をも包含する概念ではあるのですが、”時間は過去から未来へ流れる”ということを包含できていないことになる」
「カントールは、部分と全体が一対一に対応することを無限の本性としたのである」
無限と時間と脳(自己意識)はやはりつながっているというのが読後の感想。