エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

「マイナス」×「マイナス」がなぜ「プラス」になるか

学生時代には自分は数学ができると思っていた。しかしそれから二十年近くたって、仕事の必要上、シミュレーションや数理モデル作りをするために改めて数理科学に向き合うとどうもぴんとこない。どうも自分が得意だったのでは実験数学で、「数学感覚」とは遠いところで勉強していたらしい。

小島寛之の「数学でつまずくのはなぜか」を読んでそういうことを思った。

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

たとえば本の最初のところで、「マイナス」×「マイナス」がなぜ「プラス」になるかということをどう教えるかについて書いている。自分は中学1年生の娘がいるのでわかるのだが、普通こういうところは「そういうきまりになっているから覚えるしかないんだと」と言うところである。小島寛之は違う。「方向算」という考え方を持ち込むことで、こどもでも自分の感覚で納得できる説明を与えている。

小島寛之は、この本で「あなたが数学でつまづくのは、数学はあなたの中にすでにあるからだ」ということを語りたかったと書いている。いいかえるとアフォーダンスということを重視して数学がわかる・わからないということを議論している。アフォーダンスとは、例えば椅子というものを、その形がすでに「座るものである」という情報(能力)を持っているものとして捉える考え方だ(椅子側から考えるというところが肝)。

「このようなアフォーダンス的な見方に立脚すれば、「数学ができる子・できない子」のような分類にほとんど意味がないと気づくだろう。なぜなら、「能力」は人の側ではなく、事物の側にあるからだ。学習障害や知的障害は、「健常者に共通する感覚器からは数学を受け取る事はできない」、ということを意味しているにすぎない。決して数理的なものごとの受容の完全な欠如を意味しているわけではないのだ。教育者は自分の(数理的)感覚器を普遍的なものを思い込まず、こどもの側だけではなく事物の側に備わるアフォーダンスのあり方にも注意を払うべきなのである」

このことは数学に限らず、広く「教える」ことをまじめに考える時にちょっと気に留めるべきことだろう。

「2次の代数や2次方程式を学ぶ意義というのは一体何なのだろうか。
それは、ひとことでいうと、「このわたしたちの住む世界がある種のひずみをもっている」ということを理解するということだ」
このあたりも、中学生のこどもがいると気になるくだりである。

幾何の証明についても、小島寛之は思わぬところにこどもの躓きの種を指摘し、論理学にまで話を持っていく。
「論理を真理値から理解する立場を「セマンティックス(意味論的)というのに対して、「推論の規則」として理解する立場を「シンタックス(構文的)」というが、少なくとも数学における証明の理解に役に立つのは、セマンティックスではなくシンタックスの方だ。
論理を理解するのに大事なのは、真理表よりも推論規則だ」

自然数を扱った第4章も面白い。

数学的帰納法の原理は、多くの数学者が正しい原理であると信じて使ってきた。しかしながら、「なぜ正しいのか」、「他の原理から証明できないのか」、「証明するまでもなく当たり前のことなのか」、それらに答えた数学者はいなかったのである。
ある意味で、この疑問に決定的な答えを出したのが、ペアノだ、ということになるだろう。つまりペアノは、数学者達が疑うことなく経験的に使ってきたこの原理こそが、まさに「自然数の正体そのもの」である、としたわけなのだ」
「実はこの「複層構造」というのが、「自然数の秘密」なのである。大胆な言い方をするならば、数学的帰納法を備える自然数という数集合の本性とは、「無限のマトリョーシカ」なのだ」

さて、この本は面白い。星4つには値する。問題はこの路線で中一の娘の数学の面倒をみれるかどうかである。嫁さんには「やるならあなたがやってよ」と言われた。