エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

Uさんの仁科賞

昨日、帰宅して新聞を読んでいたら、物理学科の同級生で仲良くしていたUさんが、今年の仁科賞を受賞したという記事を見つけて、大いに驚いた。

仁科賞は、朝永振一郎のボスだった仁科芳雄の名を冠した日本物理学界最高の賞である。それを45歳でとったのだから大したものだ。量子気体の理論研究らしい。Uさんの研究室のホームページを見に行ったら、写真も出ていて、仲良くしていた頃の雰囲気がそのままだったのですっかり懐かしくなり、お祝いのメールを書いた。20数年ぶりである。

Uさんは、とにかくエネルギッシュな人だった。勉強会に誘われて、ディラックの「量子力学」とサルトル共産主義に関する何かの本を数人で読んだが、そういう場をリードするのはいつも彼だった。しばらく当時の熱気を懐かしく思い出し、25年という時間が流れたことを振り返った。私はかなり背伸びをしていたのでつらかったはずだが、思い出すのは何やら楽しい。

小島寛之の「文系のための数学教室」を読む。

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

前書きに、「誰に遠慮することもなく、現代数学の下手の横好きになるための本」とある。著者が言うように、それが学校生活を生きるのでない、大人生活を生きる良さだと、全く同感。

題材は、ルベーク積分や、数理論理、トポロジー距離空間、確率積分と並んでいる。それを文系向けのネタでうまくまとめてある。

いろいろ面白い話が並んでいて楽しめたが、目から鱗が落ちたのは、数理論理を日常論理と比較した第1章。

「真偽のわかっている命題の論理的なつながりなどにはほとんど興味がないでしょう。(中略)そんなわけで、わたしたちが着目すべきなのは「推論」というものです。つまり、「論理というのは推論をつなげていくための手続きなのだ」という見方をすることが大切なのです。
 人の話が「論理的」であるかどうかは、その人の取り上げる個々の文の真偽とは関係させるべきではありません。そもそも文の真偽というのは、聞く人の主義主張、宗教、思考、慣性によってまちまちになります。一方、論理的な議論展開であるかどうかということは。そういった主義主張や思想信条とは独立に決まってくるものであるべきでしょう」
「論理を扱う立場は二つあります。一つは、論理文を構成する個々の文の真偽に立ち入って考える立場で、「セマンティクス」と呼ばれます。それに反して、文の内容や真偽とは無関係に、形式的な推論の仕方だけに注目する立場を「シンタックス」といいます」

物を知らないのを告白すると、セマンティクスとシンタックスがそういう意味だというのを初めて知った。著者によればそれも当然だそうで、確かに学校教育で論理を教えるが、その教育は「セマンティクス」と「シンタックス」を対置させて教示するわけではなく、日常論理に引きずられて、無自覚的なセマンティックな論理教育しかできていないのが実体だそうな。それで何がまずいかというと、以下の記述のように、主義の異なる人間と論理的な会話をかわすことができなくなる。盲点をつかれてのけぞった。確かに、主義の異なる日本人どうしが議論してかみあうことはほとんどない。お互いに自らの信じるところを主張して、大体は疲れてなし崩しになるか、足して2で割ってしまう。そーか、そういうことだったのか。遅まきながら、その点を意識して自己改革したい。

「二十世紀に入ってから、 シンタックスの立場からの論理の研究が著しく進みました。にもかかわらず、それから百年近くたった今もそれを教育に取り込めていないのは、数学教育界の不勉強と非難されてもしかたないことだと思います。古い論理感を持った教員が、古いセマンティックな論理教育をする限り、同じような論理観の人々が再生産させるのは当然のことです。しかし、「論理的な話し方」というものを「正しいこと(自分にとっての正義)を話すこと」だと誤解している限り、主義の異なる人間と論理的な会話をかわすことはできないでしょう」

もうひとつ、収穫だったのは、ゲーデル不完全性定理の意味が「わかる」ように書かれていたこと。こういう具合である。

「「完全性定理」を「数理論理に属する文の範囲では、恒真文はかならず推論規則によって証明できる」と紹介しました。この「数理論理に属する文の範囲では」というさりげない条件が、実はとても大切なのです。なずなら、扱う文が「数理論理に属する文」の範囲から逸脱すると、この定理が成り立たなくなるからです。このことをゲーデルはつきとめました。「自然数論を含む公理系の文では、正しいにも関わらず証明できないものが存在する」ということを示したのです。これを「不完全性定理」といいます。幾何も代数も微分積分もおおよその数学は、「自然数論を含む公理系」にあたります。すなわち、「かつ」「または」「でない」「ならば」を組み合わせた文だけを含む世界では、「正しいこと」と「証明できること」は一致していたのに、「1,2,3、...」「次の数」「より大きい」「足し算」「掛け算」「引き算」といった概念を含むような世界に行くと、「正しいこと」のほうが「証明できること」よりずっと多い事がわかったわけです。つまり、こういう数学世界では、すべての「正しいこと」を証明という手続きで確認することが不可能なのです」

ゲーデル不完全性定理出現の歴史的背景は、この間、岩波文庫の「不完全性定理」の林晋と八杉満利子の解説でだいたい飲み込めたので、あとは冬休みにでも証明をじっくり追ってみたい。