エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

仏教の基礎は心理学にある

鈴木大拙の「無心ということ」を読む。

無心ということ (角川ソフィア文庫)

無心ということ (角川ソフィア文庫)

デカルト流に心と物をわけてしまうというのが西洋思想の本流であろう。そこに「無心」というものをぶつければどうなるのか。論理で詰めれば、この世は物ばかりの機械論ということになるだろう。そんなはずはあるまい、というのがこの本を読んだ動機であった。真宗のお坊さんの前での講演録なので、まだしも分かりやすかろうという気もあった。

「何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間で言う自然科学的心理学ではないか。ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また所謂「神学」のようにも見えるかも知れぬが、仏教の本領は心理学にある。超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。無心の理論は実に仏教思想の全体系を構成していると言ってよい。これが本当にわかると、仏教は新婦主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の真理を自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。−
 ことに仏教を以って汎神論と考え、これをキリスト教の一神論に対照させようとするものもあるが、これは深刻な見当違いである、どの派の仏教に見ても、心理が基礎になっている。而してその心理には汎神論的なところは見えぬのである」
私は仏教は汎神論だと思っていた口である。悉皆草木みな仏性を持つというのは汎神論ではないのか。天地有情というのは仏教的詠嘆だと思っていたのだが、どうも鈴木大拙にとっては違うらしい。

「一が一を見るということは、直覚でなくて、むしろ自覚である。而して無分別の分別は空間的なものでなくて、時間的である。反省的でなくて、行為的である。知性的でなくて、意思的である」
ここで時間が出てくるのは面白い。

「ある方面から見れば、「我」を存して、これを離れることは論理的には矛盾と思われるが、しかし実際の上から言うと矛盾ではない。それは何故かというと、始めから何もないところに、何かをこしらえ上げたからである。そういうと、無心はまた極めて容易なことであるとも見られる」

「仏の誓にまかせていること、これが無心なのです。無心というと消極的にとられてしまうかもしれないが、真宗の言葉で言えば仏の誓、道元禅師の言葉で言えば仏の御命、これが無心であると言うようにみて差し支えないのである」

「大体に宗教は論理の域外に出ているものですから、自然逆説的になるのが常なのです。矛盾に満ちているということが、ほとんど宗教の一特色と見られている位です」