この季節はわりと好きだ。気力が充実している。充実しているので、前から気になっていた大著に挑んだ。
ロジャー・ペンローズの「心の影」。あの「皇帝の新しい心」の続編だ。
- 作者: ロジャーペンローズ,Roger Penrose,林一
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2001/12
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- 作者: ロジャーペンローズ,Roger Penrose,林一
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/04
- メディア: 単行本
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1巻めのタイトルは、「心の理解になぜ新しい物理学が必要なのか」。2巻目のタイトルは、「心を理解するのにどんな新しい物理学が必要なのか」。
1巻目でペンローズは、「脳の適当な物理的活動は意識を引き起こすが、この物理的活動を計算によって適切にシミュレートすることはできない」と主張する。つまり意識は非計算的な過程であり、コンピュータは計算しかできない(アルゴリズムに従って動くことしかできない)ために意識が持てないとなる。具体的には、ゲーデルの不完全性定理の議論をより単純な形に置き換えて、ある型の数学的理解が計算的な記述をすり抜けていることを示し、われわれの心が非計算的な何かを行える事を確認している。非計算的であることが証明可能だとペンローズが主張している気づきは、自然数0, 1,2,3,4…の性質の理解である。言い換えると、「人間の数学者は数学的真理を確認するために、健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」。
この辺りはわからないなりに何とかついていける。この間のエーデルマンの本で、conscious artifactは実現できるとあったのに対し、ペンローズはコンピュータは意識が持てないと断言するのが面白い。個人的にはペンローズの分があるような気がする(単なる勘だが)。
2巻目でペンローズは、「意識の問題を物理的作用の見地から解決する上で真の進歩を達成するためには、あらかじめ量子測定の問題に取り組み、それを解決しておかなければならない。そして、測定問題は完全に物理学の見地で解決しなければならない」と主張する。なぜここで量子測定なのか?饒舌なペンローズがここでははっきり説明しない。個人的な信念のようにも見える。
「状態ベクトルが収縮したように「見える」ときに実際に起きる事の細部こそが、われわれを正真正銘の計算不可能なものに導いてくれるということであろう。このように推定されるOR(objective reduction)過程の完全な理論は、本質的に計算不可能な図式でなければならないだろう。」かくして、ペンローズはボーア流の解釈(この本で言うところのFAPP(For All Practical Purpose)解釈)とも多時間解釈とも袂を分かち、独自の道へと入っていく。
最後に例の微小管意識理論が登場し、クライマックスを迎える。
「脳の活動を支配するのが微小管であるなら、微小管の活動の中には単なる計算とは異なるものがあるに違いない。こうした非計算的活動は、かなり大規模な量子コヒーレンス現象がマクロな振る舞いと何らかの微妙な仕方で結びついた結果であり、そのためにシステムは、現在の物理学の間に合わせのR(Reduction=状態関数の収縮)手順に代わる新しい物理的過程を利用できるのだ」
「生物的システムであるわれわれの脳は、人間の物理学者にはいまだ未知の物理学の細部を、ともかくも首尾よく利用してきたということになる。この物理学は量子レベルと古典レベルにまたがる、まだ見つかっていないOR理論であり、私が論じているように、間に合わせのR手順を高度に微妙な非計算的な(しかし、疑いもなく数学的な)物理的図式で置き換えるはずのものである」
「意識とは、この量子的に絡み合った内部的細胞骨格状態と、量子および古典レベルの活動の相互作用(OR)とのかかわりから発現したものであろう。現在もてはやされている脳と心の描像をもたらすニューロン・レベルの記述は、より深い細胞骨格レベルの活動の影にすぎない」
時間の描像についてもペンローズ流が出てくる。
「実は「流れる」時間を用いて考えるようにわれわれに求めるものは、そもそも意識の現象しかないのである。相対性理論によれば、あるのは「静的な4次元時空」だけであり、そこには「流れる」ものは何もないのである。時空はだたそこにあって、時間が流れないのは空間が流れないのと同じである」
意識、量子力学の解釈問題、時間。
よくできたアクション映画のように面白い。難しいことは難しいのでところどころ全くついていけないが。
また元気があるときに今度は「皇帝の新しい心」を読んでみよう。