エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

脳よりも心が広いことについて

無事に年賀状書きを終える。思い切ってプリンターを買い換えたので随分楽になった。


アンディ・クラークの「現れる存在」を読む。

現れる存在―脳と身体と世界の再統合

現れる存在―脳と身体と世界の再統合


帯に、<心の哲学>現代の古典と書いてあるが、その表現がぴったりくる名著。特に冒頭の2つの章でロボットの開発や幼児の発達の研究結果の具体例を鮮やかに切り取って、「拡張された脳―身体―世界のシステム」という話につなげていく手際は見事だ。具体的なデータときちんと対応させながら、十分に深い思考が展開されるので、実に楽しく読めた。人工知能研究の展開のひとつの形として、ロボット実験を中心にすえて議論する「身体性認知科学」というものの存在は知っていたが、例のポストモダン科学ではないかと思って食わず嫌いで過ごしてきたが、もったいないことをした。哲学者のきれいな(空)論よりもこのほうがよほど楽しい。

「外に広がった心」という概念は、生物が実のところ「ありもの」を最大限に使いまわすことで機能を実装してきているという事実に基づいて出てきている。いろいろ例が挙げられているが、個人的には付録に書かれているサセックス大学での「進化電子工学」の例がうけた(これは授業で使えそう)。認知機能を実現するのに、実空間のいろいろな特性(たとえばチップからチップへの基盤を介したノイズの漏出)を使った方がコストが低く、したがって生物進化の際には実はそれが使われてきたと考えることで、随分いろいろな点がクリアになる。自分の研究の動機との関連では、「脳が心を生み出す仕組みを理解するためになぜ神経細胞を理解しなければいけないか。それでどういうことが期待できるか」という点に一定の根拠を見出せた気がして気持ちが広がった。もちろんそれが形になるのはまだ十年以上先のことだのだろうけれども。

「心は漏れ出しやすい装置である。絶えず『自然な』境界を抜け出して、臆面もなく身体や世界と混じり合ってしまう。脳はいったいどうなっていて、そのような外部の支えを必要としているのか。また、脳と環境との相互作用はどのように特徴づければいいのだろうか。これから見て行こうとするのは、脳はある種の連想エンジンであり、環境との相互作用は、単純なパターン補完計算の反復であるとする、新しい見方である」
「(これらのアプローチは)ずっと下までつながる力学的理解であり、そこを起点にすれば、さらに大きく複雑なシステムがもてる特別な性質が、さらにわかりやすくなるような理解である。―これらのアプローチと従来型の研究とを区別しているのは、つまるところ、次の主張あるいは懐疑である。それは、内的表象、情報処理、そして(おそらく)計算のこれまで慣れ親しんだ概念では、神経組織に関する残された問題を理解するための、最善の語彙あるいは枠組みにはならないのではないかというものだ。それに代わるものとして、これらの著者は力学系の語彙を使って、生物学的組織のすべてのレベルを記述し説明することに賭けているのだ」

この路線では、ハードの特性を実際上無視してきた古典的な人工知能のアプローチも棚上げされるし、一方で(小さな)神経回路モデルは脳のモデルとしての実効性を失うことになる。

代わって前面に出てくるのはこういうアプローチである。
「ここに挙げた、分権化、再帰性生態学的な影響、分散した多次元表象といったものの組み合わせが、表象を持つ脳のイメージになっており、これは単一的でシンボリックな内部コードという脳の古い考え方からは、はるかにかけ離れている」
「1)頭(あるいは内部の表象システム)にあまり詰め込み過ぎないこと。何が内的に表象され、かつ/あるいは、計算されるのかは、問題解決への手続きに身体と環境の両方の因子を取り込もうとする複雑なバランスをとった末に決まってくる。結果として、不完全なプログラムによる解決策と、行為志向的あるいは個人に合わせた表象、この2つが生物にはふさわしい。
2)内的表象の形式や神経による計算スタイルに対して、固定した仮定をしないように用心すること。古典的な(時間空間的に局在した)表象と離散的な逐次計算が、表象主義的で計算主義的な解決策の全貌であると考える根拠はないのだ。コネクショニストモデルは、ともかくもすでにこうした制約を緩め始めてきている―だがそれはまだ生物学的システムにとって利用できる可能性の広がりの上面をなでているにすぎない」
「もっとも見込みのある神経科学的モデルには3つの主要な特徴があると思う。それは
1)多重的で部分的な表現を用いる
2)感覚と運動の技能を第一重点に置く
3)神経系全体のやりとりを分権的なものとみなす
である」


そこから出てくる新たな"Being=現存在"のイメージとはこういうものである。
「高度な認知は、推論を消散させるわれわれの能力に決定的にかかっているという考え方だ。すなわち、獲得した知識や実用的な知恵を複雑な社会構造の中に拡散させ、脳を言語的、政治的、制度的な制約が複雑に入り組んだ中に置くことで、個人の脳にかかる負担を減らす能力である。
人間の脳プラスこうしたたくさんの外部の足場作りこそが、ついには賢くて合理的な推論エンジンを構成するのであり、それを心と呼んでいる。そう考えると、われわれはやはり賢い ― ただし、われわれを包む境界は、最初に考えていたよりもずっと外へ、世界の方へと広がっている」

「このようなことを考え、また方法論的にも拡張された脳―身体―世界のシステムを、統合された計算論的で動力学的な全体として研究することは、明らかな価値があることを踏まえると、私は、認知プロセスが皮膚と頭蓋骨の殻を破って拡張していくものとして(ときには)扱うことが有用だと確信する。そして私は、心そのものの直観的観念を広げて、さまざまな外部の支えや手助けを包含させてはだめだろうかと、考えるに至った―つまり、われわれが「心」だとみなしているシステムは、「脳」と呼んでいるシステムよりも、実はずっと広いのでないかと」