長いフレーズの作り方と音の自在な配置
ここのところの冷え込みで、池の向こうの紅葉が急に鮮やかになった。
小澤征爾と村上春樹の「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読む。
- 作者: 小澤征爾,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/11/30
- メディア: 単行本
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いろいろ理由があって、たぶんマエストロ小澤の指揮する音楽をしっかり聴いたことがないのだが、この本はいろいろな発見があって大層面白かった。たとえばこういうくだり。
「なんだかカラヤン先生とバーンスタインの比較みたいになっちゃうんだけど、ディレクションという言葉がありますよね。方向性です。つまり、音楽の方向性。それがカラヤン先生の場合は生まれつき具わっているんです。長いフレーズを作っていく能力。そしてそういうことを僕たちにも教えてくれたわけ。長いフレーズの作り方を。それに比べてレニーの場合は天才肌というか、天性でフレーズを作る能力はあるんだけど、自分の意思で、意図的にそういうのをこしらえていくというところはない。カラヤン先生の場合はひとつの医師として、まっあすぐ意欲を持ってやっていくんです。ベートーヴェンの場合なんかね。あるいはブラームスの場合。だからブラームスなんかやると、そういう意欲はカラヤン先生の場合、もう圧倒的に強いです。ある場合には細かいアンサンブルなんか犠牲にしてでも、そっちの方を優先します」
「長いフレーズの作り方」など考えたこともなかったが、そういわれてみるとはじめて気づくことがいろいろある。
内田光子とザンデルリンクのベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番を聴きながらの二人の会話
「『ここね、すっと間を取ったでしょ。これ、グールドがさっき間をとったのとちょうど同じところですよ』
『そういえばそうですね。間のとり方というか、音の自在な配置の仕方が、どことなくグールドを彷彿させます』
「うん、たしかに似ている』」
これは軽い驚きだった。10年くらい前に内田光子のピアノを聴いたときに極めて親しめるものを感じて、それは今に至るまでずっと持続しているが、それが25年前からずっと好んで聴いているグールドの音楽とこういう形で通じていたからだろうということがいきなりわかった。確かに私がこの二人の音楽を飽きることなく聴き続けているのは、そこに適切な「間」があり、それがただ心地よいからだと思う。
「『ほんとに耳がいいんですよ、音楽的な耳が、この人は』
しばらくのあいだピアノとオーケストラの絡みが続く。
『今の三つ前のところ、音があってなかったな。光子さんきっと怒ってるんじゃないかな』
空間に墨絵を描くような、どこまでも美しいピアノの独奏。端正で、かつ勇気にあふれた音の連なり。ひとつひとつの音が思考している。
『ここのところが、何度聴いてもいいんです。どれだけゆっくり弾いても緊張がまったく途切れない』」
早速アマゾンで注文。来週末はこれを聞いてゆっくりしたい。