エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

惑星の思考

神楽坂で開かれた恩師の喜寿の会。毘沙門天をはじめて見た。


宮内勝典の「惑星の思考」を読む。

惑星の思考―“9・11”以後を生きる

惑星の思考―“9・11”以後を生きる

「東京タワーに灯りがついた。まもなく東京は夜光虫がきらめくような暗い海になるのだろう。ここには無数の病んだ声が潜んでいる。9.11以後、血の海はまだ乾いていない」

「ゲスト・スピーカーとして、地雷除去の活動をしている若いアフガン人を招いていた。かれの話に鳥肌が立った。もう20年以上、内乱と戦争ばかり続いているから、子供のころから、平和というものを、全く知らないのだという。平和とはどんなものか想像できないのだ」


「友人の一人に、ついに召集令状がきたとき、
"Don't die."
死ぬなよと言うと、ひっそり首をふりながら、
"Don't kill."
殺すなだろう、と友人が答えてきた」


『大変な変化は、グローバル化への素朴な期待が失われてしまったことだろう。グローバル化は進むが、これからは見えない陰につきまとわれ続けることになる。いまのところグローバリゼーション以外に選択肢はない。だが、実際にはグローバリゼーションの上昇過程は終わって、これからは下降へ向かうのかもしれない』
『貧困の解消に反対するわけではないが、豊かさや安楽が得られれば解決するほど問題は単純ではない。事態はもっと深刻だ。西欧人は理解していないが、貧しい国の人々の憎悪は、搾取だけに原因があるのではなく、屈辱感によるものだ。テロを生み出すエネルギーは貧困よりも屈辱が大きいことに我々は目を向ける必要がある』


「20世紀の最大の謎は、ヒトラーナチスという現象だろう。600万人をガス室へ送り込むほどの狂気がどうして発生したのか、当時の社会情勢のほかにも、精神病理学の側面からも解かなければならないはずだ。ユングは、ナチズムの本質とは、キリスト教によって圧殺されてしまったゲルマンの森の神々、その主神である「ヴォータン」の復活であるとみなしていた。
「ヴォータン」とは、生命の祝祭、たとえばデュオニソスのような神だったそうだ。ヒトラーのカリスマ的な演説に、ドイツ人たちは無意識のうちに「ヴォータン」の神を見て、陶酔してしまったのか。ハイデガーのようにナチスに加担したとまではいえなくても、ユングは確かにナチズムへの共鳴圏内にいたはずだ。リチャード・ノルの『ユングという<神>』を読むと、まだかなりの未公開資料が残っているそうだ。
ユングには魔王のような側面がある。神経症の患者に複数婚をすすめることさえあった。そして彼自身も、それを実践していたのだ。かれの愛人たちの日記は、ユング派によってまだ禁書扱いされ、封印されている。それが後悔されれば、ユングの謎が解けるはずだ。死後に公開された『ユング自伝』も、弟子達による贋作とまでは言えないにしても、かなり手を加えられ、意図的に編集されているらしい。ぼくはユング自身が「ヴォータン」であったと考えている。かれはヒトラーのように、心理学による魔術的な救世主になろうとしていたのではないか。精神病理学の分野からもナチスの謎に踏み込んでいくべきだが、まだそんな思考に出くわしたことがない。かろうじてフロイトの『モーゼと一神教』や、フランクルの著作ぐらいではないかと思っていた」

ユングは私にはわからない。特にユーモアが感じられないところが不透明だ。好きか嫌いかさえわからない。


イスラムの地上とは、底の底まで「聖なるもの」が浸透している世界でなければならないのだという。日常生活の一瞬一瞬ごとに、神の顕現を感じつつ生きなければならない。だから、法と宗教が分離しない。イスラム法とは、そうあるべきだと神が定める世界のかたち、「聖なるもの」が底まで染みとおった共同体のありかたにほかならない」


「そしてつきつめていくと、その要点はエリクソンの『アイデンティティの拡散』へと至る。つまり、『自分とは何か』、『自分が世界に占める場所はどこか』、『自分は果たして他者から何を期待されているのか』『自分はどこから来てどこへ行くべきなのか』と言う堂々めぐりの自問自答である。こうした真面目人間のうつ病は日本とドイツに多いという。国民性があるにしても、一世紀にわたる国家主導型の半後進性が強迫的心性をわれわれの中に汎く作り出し、それが今日のうつ病増加の背景をなしているのではないかと考えられる」

この点については、さまざまな角度から考えているが、まだまだいい答えを思いつかない。本来存在しないはずの「アイデンティティ」にこだわってしまうのが進化的なしくみだということまではわかる。それがうつ病につながるとしたら、うつ病も進化の必然で、むやみに薬や機械で直すべきではないのか。


フセインは穴の中に隠れているとき、75万ドルの現金と、二丁の銃を持っていたそうだ。札束を抱え、小便を垂れ流しながらサティアンの隠し部屋に潜んでいた麻原彰晃を思い出させる。だが、異なる一点がある。フセインは札束と銃のほかに『罪と罰』をたずさえていたことだ。」

なぜ『罪と罰』なのかがわからない。それでは単なるミーハーだ。


「『作家であるためには死んでいなければならない』とトーマス・マンは述べている。生を全うするため作家になりたいと思っていた青年時代、実に不可解な言葉だったけれど、いまは痛いほどよく分かる」

憲法9条が、なしくずしに骨抜きにされていく。現在の憲法9条はあまりにもきれいごとすぎるから、現実に対応できるように、いずれは憲法を変えていかねばならないだろう。だが、今ではない。今は凍結しておいたほうがいいと思う。EUの憲法がどれほど膨大で、どれほど緻密であるかを知って驚いたことがある。異なる国家、異なる言葉をもつヨーロッパが連帯するため、互いに知恵を絞りあい、ロゴスによって新しいルールを作り出そうと苦闘している」

「アメリカの黒人回教徒たちが、イスラム原理主義に呼応していく気配もなく、アメリカ国内ではテロが起こっていない秘密はそこにあると思われる。豊かさに目がくらんでしまったという訳ではなさそうだ。観念を呑む込み、あらゆる混沌を飲み込み、胃袋で溶かしてしまう力がアメリカにはある。それが多民族国家としてのアメリカの底力だ。自由がある。さまざまな矛盾を抱えているが、その<自由>にはやはり実体がある」

その自由は生物学の視点から見ても正しいのか。


琉球共和社会憲法より。九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺戮するからくりであることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地を作った。われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って、『戦争放棄』『非戦、非軍備』を冒頭に掲げた『日本国憲法』と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省は、あまりにも浅く、淡雪となって消えた。われわれはもうホトホト愛想が尽きた。好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者たちよ、好むところの道を行くがいい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」

ル=グィンの「オメラスから歩み去る人々」を思い出す。米韓軍事演習がはじまる。