エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

21世紀最初の天才数学者

民主党政権の科学技術政策の行方について、特に先月始まった仕分け以来の科学コミュニティ(もちろん自分や身の周りも含めて)の喧々囂々はすごいものがある。(たとえば、http://mitsuhiro.exblog.jp/12991996/

こういうことは同時代の意見として記録する意味は(自分に対してもネット社会に対しても)あると思うので、喧々囂々の第一波がどうやら過ぎたこの時期に、当座の自分の意見なり、対応の心構えをまとめてみたい。

・日本社会のシステムがここまで危機的状況にあるという認識はまず基本的に必要。
・国からの研究資金(科学研究費等)のサポートの見通しは現状では不透明だし、数年にわたってあちこちで変なことが起こる可能性はあるが、それはシステムを大きく変えるために必要な揺さぶりだと受け止めることはできるし、また研究者は個人的にはやや楽観するのが生きのびるコツだろう。
・マスコミ、特に新聞・テレビから得る情報量を減らして(商業主義的バイアスがかかりすぎている)、古典的なものを含めて社会科学に関する本を読む時間を増やす。科学者が社会に関わろうとするときに、自分の仕事の説明責任の方にどうしても頭がいくが、そもそも科学や科学者を含む国家や世界がどういう方向をめざすべきかという世界観を自分の中に育てることには注意が向きにくい。でも、50年後、100年後のあるべき姿を想定することなしに、「やや楽観的」という態度を持ち続けることは難しい。


マーシャ・ガッセンの「完全なる証明」を読む。

ポアンカレ予想を証明した(21世紀最初の天才数学者)グレゴリー・ペレルマンの伝記である。

ペレルマンに興味を持ったのは、NHKの「100年の謎はなぜ解けたのか」がきっかけで、その後翻訳が出たオシアとスピーロによる2冊のポアンカレ予想の解説書もなかなか楽しく読んだ。

その時点でのペレルマンの印象は「かなり変わった天才数学者」というまあ一般的なイメージの範疇のものだった。その人生は、グロタンディークやナッシュのように多分大変興味深いのだろうが、それは個人的なものであり、まさかその人生の背後に、ロシアの特産物とも言えるドストエフスキー的な絶対的で過剰な闇がどーんと広がっているだろうとは全く想像しなかった。本書はその闇を見事に描き出している。

多くの理系人間にとって、ドストエフスキーの小説世界は(あの亀山郁夫の新訳が出た今でさえ)最も縁遠いもののリストに入るだろう。それは個人的にとてももったいないことだと思う。「カラマーゾフの兄弟」などの長編小説群で執拗に過剰に展開されるモラルの極北のようなドストエフスキーの世界は、ヒトの「こころ」の最も奥に広がっている何かを経験させてくれる。

この本は、そのドストエフスキー的何かと同じ質のものを、理系人間にもわりと楽に共感できる形で味あわせてくれる。その意味で貴重だ。

「これをもって円は完成した。ペレルマンの頭脳は、コルモゴロフが描いた世界に魅了された。コルモゴロフが描いて見せたのは、不正や陰口がなく、女性をはじめ気を散らすようなものは存在せず、数学と美しい音楽と、公正な見返りのある世界だった。その世界をペレルマンは信じた」

ペレルマンは、ルクシンと母親がロープで仕切ってくれた数学という空想世界の中で成長した。彼は一人暮らしをしたことがなかった。いつだってルクシンか母親のどちらかが一緒にいてくれたからだ。オリンピックの合宿も、アメリカへの講演旅行でさえそうだった。ルクシンと母親とは、不条理な現実世界や、通訳や仲介者たちとペレルマンとのあいだに入り、緩衝材としての役割を果たしてくれた。ペレルマンが、現実の世界は彼の求める水準に達していないことに気づくまでに、何十年という時間がかかった理由のひとつはそこにある。そして、それに気づくや否や、彼は自分が真実だと思うもの―数学とルクシンと母親―の世界に引きこもった。だが、やがては数学までもが、イマジネーションよりも人間世界に味方をして、彼を失望させることになる。あとには取り残されたのは、二人の男だけだった」

「「彼が幾何学の道に入ったとき」とグロモフは言った。「彼は最強の幾何学者だったよ。この世界から姿を消す前の彼は、間違いなく世界一だった」
「それはどういうことですか?」
「彼は最高の仕事をしたということさ」
さらに話を聞くうちに、グロモフがペレルマンを「世界一」というのは、最強の幾何学者という意味ではなく、あらゆる数学者の中で最強だという意味であることがわかってきた。グロモフはペレルマンニュートンにたとえたが、すぐにそれを訂正してこう言った。
「いや、ニュートンはずいぶん悪いやつだったが、ペレルマンはずっといいやつだ。彼にも欠点はあるが、そんなものは玉に瑕さ。彼には道義というものがあって、それを守り通している。それがまわりのみんなを驚かせるのさ。よく言われるように、彼の行動が奇妙に見えるのは、彼が社会規範にとらわれずに、誠実に行動してしまうからなんだ。この社会では、ああいう振る舞いは好まれない。たとえ、あれこそが規範とされるべき行動だったとしてもね。彼の一番奇妙なところは、道徳的に正しい振る舞いをすることなのさ。彼の従う理想は、科学が暗黙のうちに受け入れている理想だよ」


そして、この本でガッセンが答えたいと書いている第一の疑問が「なぜペレルマンは、ポアンカレ予想の証明を達成できることができたのか?つまり、その頭脳のいったいどこが、彼とこの問題に挑んだ他の数学者たちとをわけたのだろうか?」ということであったことを考える時、ポアンカレ予想の証明の「異質さ」が逆照射されてくるのを感じる。数学ファンにはそれもまたたまらない。

ペレルマンの証明の論理をみていくと、何か奇妙な気持ちになるし、皮肉なものも感じる。彼がこの予想の証明を成し遂げることができたのは、あらゆる可能性を見通して把握するという、底知れぬその頭脳の威力を全開にしたおかげだった。最終的に彼は、曲率が成長し、対象が自ら形を変えていくときに起こりうることはすべて把握したと言うことができた。また彼は、トポロジカルな変化のいくつかは、現実には決して起こらないのだから捨ててもよいとも言った。想像上の四次元空間について語りながら、彼の口ぶりは「自然界」で起こること、そして起こらないことを論じているかのようだ。つまるところ、彼は人生においてやろうとしてきたことをやり遂げたのだろう。自然界に起こりうることをすべて把握し、その領域からはみ出すものは―カストラートの声や、車や、その他なんであれ不愉快で特異なものは―すべて消去することを」
「それはまさしく、数学クラブ時代の仲間たちが「ペレルマンの杖」と呼んだ魔法だった。彼はまず問題をまるごと取り込み、それを徐々に煮詰めていく。すると最後に残るエッセンスは、誰も思いもしなかったほどシンプルだったことがわかるのだ」