エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

叛逆としての科学

昨日はN大のS先生のグループと共同研究の打ち合わせ。こちらは実験でむこうが理論なので。話がかみ合うまでにいつも時間がかかる。これが同じ大学にいてもっと日常的に議論ができれば、もっとスムースに進むのだろうが。ネット時代なのだからもう少し工夫をしたいところだ、といつも同じことを思うのだが、ついつい後回しにしてしまう。在宅勤務者用の会議ソフトで使い勝手のいいものを探してみよう。

明日から下の子がYMCAのキャンプにでかける。上の子のリュックをしょってご機嫌だ。子供の頃のキャンプを思い出す。楽しいだろうなあ。

この4月に亡くなったばかりのフリーマン・ダイソンの「叛逆としての科学」を読む。"NewYork Review of Books"に書いた書評を中心としたエッセイ集だ。

叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章

叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章

フリーマン・ダイソンの本にはいつも、奔放な想像力と緻密な論理、古き良き高潔さがある。例えば、「多様化世界」は科学に対する信頼を失いそうになる時に支えてくれる名著である。

「叛逆としての科学」でも、ダイソンの良さは十分に発揮されている。例えばブライアン・グリーンの近刊にふれて、こう書く。
「ここで、個々のグラビトンの存在を確認するのは原理上不可能だという仮説を立て、それを検証してみようと思う。この仮説が正しいと言っているのではない。ただ、それに反する証拠が見つからないのだ。もしこの仮説が正しければ、量子重力は物理的に意味がなくなる。いかなる実験を想定しても個々のグラビトンが観察されえなければ、グラビトンは物理的な実体と持たず、実在しないと考えた方がよかろう。グラビトンは、19世紀の物理学者たちが宇宙に充満していると想像した弾性のある個体媒質エーテルのようなものだ」
量子重力の必要性は自明だと思っていたが、エーテルと一緒と言われると考えがゆらぐ。どうしてこんなことが発想できるのか不思議だ。

「叛逆としての科学」
「科学とは人間の営みであり、科学を理解するにはそれを実践する個々の人間を理解するに限る、ということだ。科学は芸術の一形態であり、哲学的方法論ではない。科学の大幅な進歩はたいてい、新しい学説ではなく新しい道具がもたらす。還元主義のような単一の哲学的見地に科学を押し込むのは、ギリシア神話のプロクルステスがベッドに入りきらない客人の足を切り落とすようなものといえる。科学が最も栄えるのは、手元にある道具をすべて自由に使い、科学とはかくあるべしという先入観に縛られていないときだ」
還元主義の極みのような分子生物学的手法を使って実験している者にはこの指摘は耳が痛い。

「科学は研究し尽くせないと私が信じるもうひとつの根拠は、ゲーデル不完全性定理だ。数学者クルト・ゲーデルは1931年にこの定理を発見し、証明した。この定理によれば、何であれ一組の有限個の公式を使って演算をする場合にはかならず、決定不可能な命題、すなわち、それらの公式を使って真偽を証明できない数学的な命題が存在する事になる。ゲーデルは、論理と算術の通常の公式を使う事では真とも偽とも証明できぬ、決定不可能な命題の例を挙げた。彼の定理は純粋数学が研究しつくせないことを示している。どんなに多くの問題を解いたとしても、既存の公式では解けない問題がつねに存在する。そこで私は、ゲーデルの定理がある以上、物理学もまた研究し尽くせない、と主張する。物理学の法則は、一組の有限の公式であり、数学的演算の公式もそこに含まれるから、ゲーデルの定理は物理学の法則にもあてはまるのだ。物理学の基本方程式の範囲内でさえ、私たちの知識がつねに不完全であることをゲーデルの定理は意味している」

物理学の青春時代を知る人がまた世を去った。