エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

崩壊と再生の物語

シルヴィア・アサーの「ビューティフル・マインド」を読む。

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡

1994年に非協力ゲーム理論の構築に対してノーベル経済学賞をとったジョン・ナッシュの伝記。1950年前後の10年間にゲーム理論代数多様体の理論などの広範な分野で活躍し、「20世紀後半における最高の数学者」とも評価されたナッシュは、統合失調症を発症し、30年以上にわたって合理の世界と妄想の世界の間で苦しみ、「プリンストンの幽霊」と呼ばれるような生活を送る。ところが年をとると共に統合失調症が奇跡的に寛解し、ついにはノーベル経済学賞を受賞する、という話だ。

この崩壊と再生の物語にすっかりひきこまれて、厚みのある本に一週間かかりきりで読んだ。ごく普通の人間関係になじめない若者が、プリンストンという研究者の楽園でそのとがった性格のままに天才数学者として頭角を現す前半は、当時のアメリカの学界の様子(第2次世界大戦の直前までのアメリカは、実業の国で、今のように世界中の才能を惹きつける研究大国ではなかった)を背景に、わくわくしながら読める。

「ナッシュは、交渉するふたりの人間が合理的であるなら、それぞれが相手にどのように働きかけるかを予測するという、まったく斬新なアプローチを試みた。彼は、解そのものを示すのではなく、たがいのニーズをことごとく満たす条件を書きとめ、それが実現したらどういう状態が生ずるかを見極めようとした。
これは公理系アプローチと呼ばれ、1920年代の数学界に大旋風を巻き起こし、フォン・ノイマン量子論の著書や集合論の論文で用い、40年代後半のプリンストンで大流行した数学の手法である。ナッシュの論文は、公理的手法を社会科学の問題に適用したはじめての試みだった」

「ポーカーは、相手と自分との同時プレイで成り立つゲームである。ディキシットとネールバフは述べている。「チェスのように、順番に行うゲームの、直線的に連続する推理とは異なり、同時に行うゲームは、循環的な推理が基礎となる。各プレイヤーは、同時にプレイするにも関わらず、相手の現在のプレイには無知であるために、相手も自分と同じことを考えているかもしれない、と考えざるを得ない。ポーカーは、『彼が考えている、とわたしが考えている、と彼が考えている、とわたしが...』の好例である。各プレイヤーは、頭の中で自分をすべての人間の立場に置き、相手の次の動きを予測しなければならない。個々人の最善の行為が、この予測の構成要素である」
こうした循環的推理では、結論が何ひとつ得られないように思われる。ナッシュは、均衡の概念を駆使してこれをさばき、各プレイヤーが、相手のプレイに対して最善の対応をする方法を示した − プレイヤーは、他の全てのプレイヤーが最善の戦略の組を選択してプレイするとき、自分にとっての戦略(最適戦略)を選択する」

後半の「崩壊と再生の物語」は心を揺さぶる。特に、長い長い心の病から回復し老年期に達したナッシュが、家族をはじめとする人間関係を大事にする人間になり、数学の創造になおも挑もうとする様子は、美しいとしかいいようがない。評価は星5つ。