エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

責任という虚構

8日間の夏休みの3日目。昨日はずっと自宅で読書。


小坂井敏晶の「責任という虚構」を読む。

責任という虚構

責任という虚構

池澤夏樹の書評で妙に気にかかってAmazonで買ったままになっていたが、読み始めたら止まらずに読み通した。


序章に的確にまとめられているように、「人間は主体的存在であり、自己の行為に対して責任を負うという考えは近代市民社会の根本を支える」ということをまず前提とした上で、「責任という社会現象は何を意味するのか」というのがこの本のテーマである。わかりやすく言い換えると「なぜ人を殺してはいけないのか」という難問にまじめに答えるとどうなるかということである。そして、多くの哲学者が考えてきた決定論と自由意志と責任の関係について、筆者は素朴な感覚をひっくりかえす主張をする。


最初に、リベットの「意志発生以前にすでに無意識の信号が発せられる」という有名な研究が意味する「意志と行為とのあいだの因果性」の否定という実証科学の成果と、人間社会にとって不可欠な自由・意志・責任の諸概念が矛盾するということが精緻な論理で説明される。

「主体は実体的に捉えられない。主体とは社会現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスを意味している」
「私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生みだされる現象、これが主体の正体だ」


ここで筆者がとる戦略は、自由や責任を因果関係の枠組みで理解する発想自体をくつがえしてみる、というアクロバティックなものだ。

「意志が行為を生むわけではない。意志は個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事でなく行為だとする判断そのものだ。人間存在のあり方を理解する形式が意志とよばれるのだ」

「「実践的自由における「自由による因果性」とは意志と行為とのあいだの因果性ではなくて、じつは意志と責任を負うべき結果とのあいだの因果性なのである。ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(中島義道

「社会秩序という意味構造の中に行為を位置づけ辻褄あわせをする、これが責任と呼ばれる社会慣習の内容だ」

「自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望むとおりに行動できるという感覚であり、強制力を感じないという意味にほかならない」

「実は自由と責任の関係について論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者をみつけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構にほかならない」


という形で「責任は因果律に基づかない社会的虚構だ」という主張に至る。さらに、その虚構を成立させる<外部>(あるいは仕組みについて、素朴に考えると身も蓋もない結論に至る。


「法という虚構が成立するのと同時にその仕組みが隠蔽される。永井均は次のように的確に表現する。「道徳の外部にそれを支える道徳はない」「道徳空間を内側から閉ざす道徳イデオロギーを成立させて、十人全員に取り決めをした最初の動機を忘れさせる」「設立の趣旨を忘れることが設立の趣旨を実現する」「道徳的な人とは道徳の存在理由を知らない人のこと」「道徳の根底には、目をこらせば見えてしまうものを見てはいけないとして遮断する隠蔽工作がある」「なぜ悪いことをしてはいけないのか、なぜ道徳的でなければならないのか、といった問いに『かくかくしかじかのため』といった明快で単純な答えがあってはならないのである。そんなものはすぐにかんたんに論駁されてしまう」


こういう主張が成り立つということは理解できる。特に自然科学になじんでいるものにとっては「進化はとんでもない細工を生み出す」ということに慣れているので話にはついていける。ただ、それと話が腹におちるというのとは勿論別であって、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供の問いにこの話で答える気にはなれない。


これは社会科学の枠で考えることもできるが、自然科学的進化論の枠で考える方が無理がないと思う。例えば、一見有害無益なヒトの孤独感が、進化の過程で生み出され保存されていることについて「生物としての人間はおよそ弱い存在であり、生存するためには社会を作ることに大きなadvantageがあった。したがって、社会から離れる方向に行くとそれを不快に感じるように孤独感が発生した」という説明がされる。であれば、道徳や責任というモノも、同様のところから生まれたと考えることに無理はないだろう。それともこれはもっと深い問題なのだろうか。