エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

奇想天外・英文学講義

高山宏の「奇想天外・英文学講義」を読む。

高山本を読むのは2冊目。独特の饒舌体ではまると妙に気持ちよい。今度のねたは、シェイクスピアからホームズまでの英文学史。といっても、シェイクスピア劇は清教徒革命で抹殺され、20世紀までの300年間は今のような形で上演されることはなかったというのでまず驚かされる。清教徒革命は英国王立協会という合理主義者の時代へと続き、ニュートンが登場して、「光学」「顕微鏡」の時代が来る。幻想や魔術が抑圧された200年の「見る」文化の時代だ。そして20世紀の戦争の混乱と共に1920年代に抑圧されていた何もかもが復活してくる。というのが高山「超」英文学史の骨子だ。

「歴史的は清教徒が出てきて、ピューリタニズム以前のあらゆるものが排斥される。怪獣を売りの「ベオウルフ」から晦渋が売りのシェイクスピア劇やジョン・ダンの詩までアングロサクソン的といってよい伝統が、そこでいったん滅ぶ」

「20世紀後半のシェイクスピア像は、かつてどの時代にも見られなかったシェイクスピアだが、多分原寸大であろうと思われる。たとえそうでなかったとしても、20世紀後半にぼくたちが見たシェイクスピアとしてとらえればいい。ともかくそういう「復権」が必要なほどシェイクスピアを表舞台から抑圧したもの、その力が支配した約300年を「近代」と呼ぶことにしよう」

「「我思うゆえに我あり」のルネ・デカルト以降、ヨーロッパはなだれをうって認識論の世界に突入する。それが同時に光学の時代であるのは偶然ではない」

「1920年代=メタ推理小説誕生の背景には、17世紀のはじめからずっと続いてきた「見る文化」への否がある。見えるものがリアリティではないという当たり前のことに、1920年代になってやっと気がついたのである。
 ただ、認識としてはそうであっても、映画の世界でも「シュルレアリズム」でも、フロイトのいう「見えない世界を見えるようにする」ことに入れ込んで、コラージュでも何でも、とにかく全部見えるものに変えてしまおうとしたわけだから、そういう意味では、やはり近代の問題をそのまま引きずってはいるが、1920年代は、視覚文化の長い歴史がとにかく一度頓挫して、「これではだめだ」とはっきり認識できた時代であることは間違いない」