エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

堀井憲一郎は山口瞳である

堀井憲一郎の「落語論」を読む。

落語論 (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

「情報考学」で激賞されていたので、どうしても読みたくなって生協書籍部を隅々までさがしたけれどもなくて、もしやと思って百万遍のレブン書房に帰りに寄って探してみたら、平台の隅っこで発見。

とてもよい。読んでいるうちになぜか既視感がわいてきて、ぼーっとそれを追いかけていたら、「あぁ、山口瞳だ」と思った。司馬遼太郎山口瞳を「命懸けの僻論家」と評して、山口瞳が感激したというのが、エッセイのどこかに出ていて、折りあるごとに思い出すのだが、あれだ。これは命懸けの僻論家だ。

「これは”キャラクターを持たなきゃいけない病い”とも連動する。
いま、私たちは、名前を固定された上に、人は一人一人が個性を持ったすばらしい存在であると教えられる。大人になって木陰で休んでいる気分で振り返ると「嘘も休み休み言ってもらいたい」とおもえる。でも、これを、学校という強制的な集団で生活しているおりに、強制的に教えられるのだ。みんなに個性がある、というドグマを集団で一斉に強制的に教えられる。逃げられない。おかしくなりそうである。おかしくならないほうが不思議である。だから転化する。あらゆるものに個性があると仮想する。

近代的教育で強制された考えを落語に持ち込むと、落語は壊れる。
近代教育は「近代国家を成立させるための特殊な教条=ドグマ」でしかない。落語はもっと昔からある。落語が聞かれるのは、その、特殊な近代国家ドグマの解毒剤として有効だからだ。聞いていると考え方が少し楽になってくるからである。その落語に近代国家イズムを持ち込んでも仕方がない。戦争協力のために改ざんした落語のようになってしまう。
すべてのものにキャラクターがある、という考えは、おかしな教育からの逃げ場として作られた仮想である。それを落語に持ち込むと、一部、効果的に持ち込むのはいいのだが、徹底して持ち込むと落語と相容れなくなり、不思議な出来上がりになる。
落語世界にはキャラクターなど存在しない。
適宜、方便として、人がましいものが出てくるばかりである」

「落語の芯はストーリーではない。セリフである。
落語のすべてはセリフに宿っている。落語の神は、おそらくセリフに宿っている。
「会話の流れの中の一つのフレーズに圧倒的に惹きつけられる」というのが、落語の特徴的な魅力である。歌舞伎の決め台詞とはまた違う。ドラマや芝居の名セリフともまた違う。小説の一文ともまた違う。もっと無意味なところに落語の真髄は宿るのだ。たぶん、落語の神様はすんげえ小さい神様なんだと思う」

「1950年代まで、日本は都市と地方がきちんと分かれていた。70年代以降、急速に日本の文化はひとつにまとまっていく。日本全体がなぜか豊かになり、地方にも都市文化が浸透してゆき、テレビメディアの力で東京だけが日本文化の中心点になった。維新の元勲が喜びそうな事態が20世紀の終盤になってやっと達成されたのだ。80年代の大変動期と経て、日本国中、似たような都市を作った。地方都市の駅で降りると、私はどこでも八王子に着いた感じがしてしまう(せめて西荻窪くらいを目指せばよかったのにおもうが、そんな指導は誰もしてくれなかったのだろう)」
西荻窪?ラーメンと鰻やのこと?

「演者がめざすところは「自他の区別をなくす」ということにある。
自他の区別に頓着しなくなれば、不思議な空間を共有しやすくなるのだ。
自他の区別をなくす、とだけ聞くと、仏教の講話のようである。でも、それが落語の目的なのだ。我を忘れさせることが、演芸の目的であり、自己解放させられれば値段ぶんの満足感を抱いてもらえる」
天地有情?分節化からの脱出?

「ただ、停滞、という言葉と概念は、もともとうちの邦のものではない。
西洋さんのものだ。
キリスト教世界観から発しているのか、大航海時代の理念がまだ消え去っていないのか、イギリスの産業革命から発しているのか、そのあたりはよくわからないが、でもとにかく「どこまでも発展していくばかりである、終わりはない」というのは、西つ方の考えである。おそらく「最後は神の審判があるばかり」と勝手な考えに支えられているのだろう。完全に誇大妄想である。こういう異様な考えは、あとから参加したほうが急進化する。それがアメリカだ。アメリカはヨーロッパよりヨーロッパらしくなろうと無理をして、ヨーロッパを越えて、理念の国になっている。理念の国というと聞こえはいいが、要は頭でっかちで、現場では使えない連中のことを美しく言ったまでである。
東洋は、もう少し無理をしない。
自然に身を任せる。冬が来て、夏が来る。また秋になり冬になる。まわっている。人もまわっている。生きてるが、やがて死ぬ。また生きる。そして死ぬ。ぐるぐるとまわる。上に向かっていない。この世が終わって最後に神の審判など下されたりしない。

落語は、そういう近代西洋的発展の世界と別に存在している。
ちなみに、日本は、そういう近代的発展世界とは、最終的に同一化すまい、という気持ちを底に持ち続けてると思う。東京の真ん中に皇居を抱え、1500年以上続く王家を国の中心に抱えているのはその明確な現れだ。
落語は近代的発展とは別の世界に存在している。
日本は西洋が強制した近代的発展を好きではない」

「近代化が進み、日本家屋がなくなり、日本古来の衣装はイベントでしか着なくなり、西洋の国々と一見差異のないような生活をするようになっても、なお、日本人であることは何か、とふわっと考える人が増えると、そこに落語が用意されているのだ。
それは「すべてのものを細かくした上で、原理を突き止め、突き止めれば反転して大きく広げ普遍性を獲得したい」という近代の異常な欲求を、疑問に感じてる、ということでもある。人類全体へと広がる普遍性への拒否である」

山口瞳である。