エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

本物のchemistというものを見た

今日は、はじめて本物のchemistというものを見た。化学は暗記物と軽く思っていたが、いやいやどうして本物はすごい。

研究科に東大薬学部の浦野さんが来て、「合理的な蛍光小分子の設計とin vivo imaging」という題でセミナーをした。蛍光小分子は、昨年度のノーベル化学賞をRoger Tsienがとったように、細胞生物学ではいやというほど使われているが、2000年までは、trial and errorで作るしかない代物だった。それをデザインして作れるようにしたのが、浦野さんだ。その過程は歎賞するしかないものだった。簡単に言うと、光る光らないは、熱緩和の速度が遅いか早いかで決まるのだが、その熱緩和はほぼ計算不可能な代物である。そこで、浦野さんは、熱緩和の代わりに、電子移動を持ち込んで、光る光らない(つまり量子収率)を予測可能なものにしたわけである。

その医学的応用が、がんのin vivo imagingである。がんは外科的手術で全て取りきることができればほぼ完全に治せるというのが外科医の言い分である。ところがfMRIやPETでは1mm程度のがんは可視化できない。そして、1mm程度のがんは命を奪うのには十分なのだ。ところが、浦野さんの作った蛍光小分子を使うと、1 mm以下のがんでも見ることができる(まあ光が当てられるところにあればではあるのだが)。まだマウスの腹腔に専用の内視鏡を入れて見ている段階だが、すごい技術だと思った。本物のchemistはすごいと思った。

高橋昌一郎の「理性の限界」を読む。

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

選択(社会的意思決定)の限界、科学の限界、知識の限界の3つについての本。感心したのは、不完全性定理を巡る話題を紹介した最後の部分だ。ゲーデル文の実例を簡単なモデルで説明した本をはじめた見た。「ゲーデル文というのはこういうものだったのか」と膝を打つ思いがした。

ゲーデル命題の実例:
ある島に2種類の住民が住んでいる。「ナイト」の発言はすべて真である。「ネイブ」の発言はすべて嘘である。 ナイトと ネイブの島に、会員制のクラブがあるとする。ナイトは、自分がナイトであることを立証すればナイト・クラブ会員になれる(ナイト・クラブ会員の発言=証明可能な命題)。ネイブは 自分がネイブであることを立証すればネイブ・クラブ会員になれる(ネイブ・クラブ会員の発言=反証可能な命題)。
 不完全性定理の結論とは、一般に、システムSが正常である時、真であるにもかかわらず、Sでは照明可能でない命題が存在するということである。この決定不可能命題を「ゲーデル命題」と呼ぶ。「私はナイト・クラブ会員ではない」は ゲーデル命題である。
 この島に、「私はナイト・クラブ会員ではない」という住人Gがいたとする。この発言は ネイブには不可能なので、Gはナイトに違いない。よって、Gの発言は真である。ところが、Gをナイト・クラブ会員( 証明可能な命題)にすることはできない。もし、Gをナイト・クラブ会員にしたとしても、Gは、会員であると同時に会員でないことになり、矛盾する。この場合、島のシステム全体が矛盾する事になる。したがって、Gがナイトであることは分かっているにもかかわらず、ナイト・クラブには入会させず、放っておくしかない。つまり、Gは島のシステムで決定不可能なゲーデル命題である。

ただ、あとがきとかを読んでいると、著者のオリジナルではなく、インディアナ大学のレイモンド・スマリヤンの本が元ネタらしいので、スマリヤンの本を早速3冊手配した。楽しみである。


もうひとつ面白かったのは、人間理性と等価である可能性がある「認知論理」にパラドックスがある、という話だ。

「認知論理とは、古典的な命題論理と述語論理に一個の未定義論理記号を加えるだけで、「知る」・「信じる」・「意識する」などの認知に関わる文の解釈を可能にするように公理化された体系なのです。
 スマリヤン教授が用いる認知論理体系は「K4」と呼ばれるシステムで、古典論理に次のような公理と推論規則が加えられています。

公理1:AならばBであることを信じ、Aを信じるならばBを信じる。
公理2:Aを信じるならば、Aを信じること自体を信じる。
推論規則:「Aである」ことから「Aを信じる」ことを推論する。

ここで重要なことは、これらの公理と推論規則に基づくシステムを、論理的に厳密に公理体系化で切る店です。−この公理体系の内部で、「相互言及のパラドックス」を生じさせることができます」

「仮に「認知論理システムK4」というのが人間理性の信念体系を表しているとすると、不完全性定理によって、そこに決定不可能命題を構成できるわけだから、人間理性にも必然的にパラドックスが生じる、という可能性が出てきます」

論理学は記号が出てくると読むのが億劫になって敬遠してきたのだが、少しずつかじってみると確かに面白いものだと思う。役に立つかと言われるとよくわからないのだが。