エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

立ち現われ一元論者の見たロボットと意識

今週は良く働いたのでごほうびに午前中は休む。ソファで横になって大森荘蔵を読む。「物と心」

大森荘蔵著作集〈第4巻〉 物と心

大森荘蔵著作集〈第4巻〉 物と心

日本の持った最大の科学哲学者である大森荘蔵は「立ち現われ一元論」で知られる。平明達意の文章家としても名高い。東大教養学部の学部長も勤めたということなので、世間離れした哲人ではない。南木佳士がエッセイでその文章を絶賛していたので、好奇心が湧いた。読んでみるとなるほど達意の名文である。晦渋なところはほとんどまったくない。分からない部分は本当に難しい部分だけである。

中でもっとも惹かれたのは「ロボットと意識」のくだりである。

「「ロボットははたして生きているのか」という問いに問題があるとすれば、それはこの問いが純正な問い、イエスかノーかが一意的に与えられるはずの問いだと思い込まれていたことから生じる。この問いは、「金星にははたして磁場があるか」とか、「血液ガンはビールスによるものか」という問いのように、きっぱりイエスかノーかをきめる判定方法がある問いではない。それはむしろ、「ガラスは固体か液体か」とか「光は粒子か波動か」という問いに類するものなのである。この種の問いは、イエスかノーでは答えられず、問いの対象の精細な性質や挙動でもって答えられなければばらない。その性質や挙動をくわしく述べた上で、かくかくの観点からはこれであり、しかじかの観点からはあれである、と答えるのである。そしてロボットは生きているか、という問いには、この型の答えはほぼ与えられているのではあるまいか。むしろ、このほぼ承知されている答えの上に、タイプを誤った問いが問われているのが、このロボットの生命の問題だと言えよう」

そして最後にこう結ぶ。

「ロボットの意識の有無は科学理論や実験室で一挙に決められるものではない。人間とロボットの長い歴史の中で徐々にその答えが形成されていくものなのである。いま、あえてそれを予測するならば、ロボットは意識を持つ事になるだろう、といいたい」

最近読んだ本では、エーデルマンは、その脳理論の切れ味良いperspectiveから「ロボットは意識を持てる。conscious artifactは可能である」と論じた。その反対がペンローズである。彼は不完全性定理を少しいじって、アルゴリズムでは数学の証明を「理解」できないことから、「ロボットは意識を持てない」と結論した。

大森荘蔵の議論もユニークである。歴史が答える、とでも言ったらよいのか。うまく間をはずした答えだと思う。最後の肯定感も大森荘蔵にふさわしい。

量子力学についても何度も議論されている。

「脳生理学が脳の物理的状態と意識との「対応」や「投射」を語り、又それを語るにとどまること、心理学や一部の社会科学が漠とした意味での行動主義の枠内にとどまろうとしていること、これらは科学がその上に展開してきた素朴な加工主義のパターンの限界の無意識的な自覚のあらわれといえるとおもう。また、量子力学での観測の問題の困難は単にミクロとマクロの接合にかかわるものではなく、加工主義のパターンと端的な経験風景との接合の困難に根ざしているのではないかと疑える。観測装置と観測されるミクロ系との関係であれば、それは加工主義のパターンの中で処理される科学的問題であろう。しかし、物理的世界描写の中に端的な経験風景を整合的に書き込もうとするならば、そこに科学的には処理できない、経験描写の二つのパターンの衝突が起こるはずである。古典物理学は脳生理学と共に、この衝突が起こる手前にとどまり、科学的描写と端的な経験風景の描写という、二つのパターンでの二つの描写を重ねがきしていたのである。だが、現代物理学は加工主義描写の柵を踏み越えるところにまで進展したがために、この衝突を起こさざるを得ず、そのあらわれのひとつが観測問題となったのではあるまいかと、疑えるのである。かつて科学は哲学の土地を離れ、自己固有の土地を造成することによって巨大な進歩をとげたが、その進歩そのものによって再び哲学の知に接さざるをえなくなったように思われる」

あるいは論理学との関係。

量子力学的状態を通常の論理学(古典論理学)では表現しきれない、または表現不可能だという見解は古くからある。バーコフ、ノイマンフィンケンシュタイン、パトナムの量子論理学、ライヘンバッハの多値論理学。もしかりに、これらの見解が正しいものとすると、非主題的であることをその根本特性とする論理学もまた世界に密接に関わるものとなる。それはあからさまに世界について語ることはしないにせよ、その世界への適合性において事実世界と関わるようになる。
 古典論理学が量子力学で破綻するとされるのはどの点であるか。それは、そこでは古典論理学の分配律と呼ばれる論理法則が成り立たない、ということである。そこで、あるいはヒルベルト空間の持つ性質に基づいて、あるいは多数の系の集団の上での観測の概念から、新しい(分配律に代わる)接続詞が定義され、その新しい接続詞の間の諸関係を公理系に組んだものが量子論理と呼ばれるものである。分配律以外では、古典論理の主だった法則はやはりそこで成り立っている」

とここまでふった上で、大森は背負い投げにでる。

「無意味論をとるにせよ、有意味論をとるにせよ、量子力学古典論理が破綻するということの証明は成立しない」

痛快である。

結局、読書として大森荘蔵を読むとき、もっとも心なぐさめられるのはこういうくだりではあるまいか。

「感情、情念、気分といったものはわれわれを含めた世界の状況の中にあるのであって、その世界から分離された、しかもべったり世界にまとわりつく「心」にあるのではない。われわれの生活は、無情の物質世界と有情の心的世界が不即不離にからみあったものではない。世界そのものが有情の世界なのである」

天地有情というのは、何だか世間に疲れたときには、大きな慰めである。