エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

ポパーへのカウンターパンチ

雨は朝には上がり、今は目の前の庭に日が差している。朝顔の種はまだ芽を出さない。

今日は早くから起きて、懸案だった「方法への挑戦」をじっくり読む。

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム

P.K.ファイヤーベントはカール・ポパーの最も強烈な批判者だ。カール・ポパーの「反証可能なものだけが科学である」という言明は、あまりに広く受け容れられているがために、職業的科学人の大半はそれ自体を疑ったことがないのではあるまいか。当然とは言え、カール・ポパーの言明は自明ではなく、論争が存在する。P.K.ファイヤーベントは自ら科学論におけるアナーキストを名乗り、科学はイデオロギーのひとつであり、本来の位置に戻すべきだと主張する。

「われわれの科学=技術時代の熱に浮かされた蛮行を乗り越え、われわれが手に入れることができるとは言えこれまで一度も十分に実現されることがなかった人間性を完成するためには、科学と国家との分離がわれわれの唯一のチャンスであるかもしれない」

ここまで言うかという感じもあるが、これには原書の出版が1975年という時代背景もあるだろう。今なら人間性への信頼自体がもっと複雑に屈折した形でしか語られないだろう。

「物理学は今沈滞の時期を経験しており、ここでは量の恐るべき増大が新しい基本的観念における驚くべき貧しさを、覆い隠しているということである。(この沈滞は、物理学が科学からビジネスへと変化しつつあり、若い物理学者がもはや歴史や哲学を研究の道具として用いることはないという事実と関連をもっている。)」

この手厳しさである。標準理論は沈滞期の産物に過ぎないと切って捨てられている。一方で、ガリレオによる力学の形成をケーススタディーとして、科学の営みが、「証拠を空想的な観念に適合するように解釈し、困難をアド・ホックな仮説によって取り除き、それを脇へ押しやり、あるいはそれを真剣に受け止める事を拒否する」ことで行われてきたこと、それが必要だったことを立証しようとする。「科学の内部においてさえ、理性は包括的であり得ず、また包括的であることを許されるべきではない。また理性は他の諸機能を利するようにしばしば封じ込められ、あるいは取り除かれなければならない」

滝に打たれるような気もするが、こうした声にたまには耳を傾けるべきではないかと体の中から声が聞こえてくる。

文中、ファイヤーベントはキルケゴールの言を引いている。
「自然の客観的な(あるいは批判=合理的な)観察としての私の活動が人間存在としての私の力を弱める事はあり得ることではなかろうか。」
職業的科学とはあるいは不健康な営みなのではないかという問いかけ。自問してはっきり違うと言える強者はどれだけいるだろう。