エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

成長・円錐日記をはじめる

5月の連休中に天気の良い日を選んで大文字山に登る(といっても2回目だが)。昨年の登山では大文字のところまで行くと体力の80%を使った感じだったので、1年間でどれくらい体力が増減したかのcheckのつもり。30分で大文字到着。疲労度は昨年と同程度、時間はやや短縮。来年の目標は山頂まで行くこと。下の子と家内が山頂に行って降りてくるまでの間、山と山の間を吹き渡る風に心地よく吹かれている。

心地よさの中で、ふとブログを始めようと思った。前々からその考えは頭にあったのだが、どういう調子で書いていけばよいのかうまい見当がつかないでいた。山の風に吹かれているうちに、25年来の友人の物理学者I氏に手紙を書くつもりでいけばよいのではないかと思いついた。距離感といい、書きたいことのレベルとの対応といい、申し分のないアイデアのように思われた。

ついでタイトルを考えた。職業柄、成長円錐という言葉が好きである。しかし少しひねりが欲しい。成長・円錐と区切ってみた。成長と円錐は自然につながる言葉ではない。そのつながりはabstractである。「北京の空」とその音楽のようである(「北京の空」を聴いたことはないのだが)。まずまずかと思えた。こうしてブログのタイトルが決まった。

書いてみたいのは、昨日読んだ本のことである。勝間和代の「効率が10倍アップする新・知的生産術」である。帯につられて買ったまましばらく積んでおいた本である。個人的には星4.5をつけてもよい。知的生産を職業にする者にとってはいろいろと参考になるいい本である。たぶん20箇所くらいページの端を折った。

ただ、書きたいのはこの本の紹介ではない。この本の肝のひとつは、あらゆるインプットを脳に収納する時に「フレームワーク」という技法で取り込むということである。そうすることで、そのインプットを引き出すタグがつき、かつ知的生産に使える形で頭に収まることが強調されている。

同様の概念ないし技法として、松岡正剛の「編集工学」がある。私は、昨年の秋くらいから妙にこの言葉にこだわっている。何だか知的生産に使えそうな気がしている。ネットで編集工学研究所のページを長々と眺めたり、松岡正剛の千夜千冊を通読したり、パンフレットを取り寄せたりしている。

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛の「編集」はおそろしく奥の深い技法のようだが、とりあえず説明すると、巧みに異種のものの取り合わせをすることによって、新しい価値を作ることと言えばよかろうか。たとえば負の山水、たとえば湯川秀樹と(谷崎潤一郎が描いた)女の足の小指、たとえば17歳と非ユークリッド幾何学、等々。そのための方法論が守・破・離の形でまとめられている。

私が考え込んだのは、ユーザーの立場から見たときの話として、勝間和代の「フレームワーク」と松岡正剛の「編集」はどう重なり、どうずれているかということである。「フレームワーク」はインプットの方法論であり、「編集」はアウトプットのための方法論であるからそもそもがずれている。ただ私が興味を感じたのはそのずれではない。「フレームワーク」はマッキンゼー社の金看板のひとつだそうであり、勝間和代の本で判断する限り、資本主義(最高の効率を追求するグローバル資本主義)の極点のように思える。対して、松岡正剛の「編集」は優れて日本的な方法論として(も)位置づけられている。したがって発想の原点が全く異なる。それにもかかわらず、「フレームワーク」に見られる立体的な知的把握の方法と、異種のものを斜めにつなげる事で新しい視座を生み出す「編集」の間に、ずれの中の重なりを感じたのである。

また、松岡正剛の「編集」を「フレームワーク」で分析・理解するのはいい知的体操だろうとも思った。うまくいけば、「編集」を今までと違ったもう少し使いやすい形で理解できそうな気がする。しばらく考えてみたい。