エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

通奏低音としての核戦争

暖かい正月。箱根を走る選手も今年は寒そうに見えない。散歩する道にいつの間にか水仙が咲いているし、おそらく花粉も早めに飛ぶので早めに準備をしたほうがいいだろう。


クリフォード・D・シマックの「中継ステーション」を読む。

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

早川書房からシマックの「都市」が出たのは高校生のころだったか。SFもそろそろ卒業した気分だったので、「都市」にはまりこんだのは自分でも意外だった。そのころの最愛読書はP.K.ディックの「偶然世界」からシマックの「都市」に移り、長く「都市」のままで、大学に入ってA.K.ルグィンの「伝道の書に捧げる薔薇」に移っている。

「中継ステーション」はそのころから書名としては知っていた。早川書房から出ていたので読めたはずだが、読んだ覚えがない。今回の本の帯には『異星人たちと交流する、地球でただひとりの男がおくる驚異の日々』とあるが、その程度の惹句に腰が引けたとは思えないので、単なるタイミングの問題だろう。


原著が書かれたのが1963年。このころの日本が核戦争の予感に包まれたチリチリした時代の雰囲気だったことは内田樹さんの文章で何度も目にしているが、アメリカ人であるシマックの感覚でもやはり核戦争がリアルな生活感覚に入り込んでいるらしいのが、この本のあちこちにみてとれる。
私はこの年の生まれだが、自覚できる範囲では同じタイプの危機感はない。今思うといくつか「あれ」と思うことはあるのだが、何しろ鉄道の駅まで車で30分という田舎なのでテレビ番組からそれを感じるのは無理だっただろう。
ともかく、この「中継ステーション」を読んでいてずっと通奏低音のように感じられていたのは、「リアルな戦争」(小説の中の戦争ではない)の雰囲気で、それが長く印象に残った。

「都市」はおとぎ話のように聞こえるし、(今思い出すと少しばかり固いのだが)ユーモラスな話である。「中継ステーション」はある種のmanifestのようでもあるし、告白のようでもある。つまり、よりまじめである。これはなぜだろう。1963年はケネディ大統領暗殺の年だ。その頃の歴史的背景(キューバ危機など)で理解すればいいのだろうか。

きちんとトレースしているわけでもなんでもないが、すでにいくつか異星人ものは書かれていたはずで、(火星戦争は別としても)このテーマそのものが突飛すぎることはないはずだ。にも関わらず小説の面白さとはまた別に「何かいいたいのだろうな」ということが感じ取れる。これが個人的なことならば、現代の感覚からすると「またか」となるのだろうが、シマックが小説の形で伝えたいのはそれではないらしい。

まああまりまじめに考えるのはシマックの意図に反するのだろうから、楽しく読めばそれでいいだろう。