エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

数学基礎論論争

大学へ行く道に萩の花で知られる小さな寺があり、いまが盛りだ。通りかかるといいものをみたと少しいい気持になる。

佐々木力の「二十世紀数学思想」を読む。

二十世紀数学思想

二十世紀数学思想

第1章が数学基礎論論争。第2章がヘルマン・ワイルの数学思想。第3章がフォン・ノイマンをとりあげて数学者の社会的モラルをとりあげる。

中では第1章が格別に面白かった。1930年代に盛り上がった数学基礎論論争は、論理主義(フレーゲラッセル、ホワイトヘッド)、直観主義(ブラウワー、ワイル)、形式主義ヒルベルトフォン・ノイマン)の3派による論争だったらしい。論理主義のオールターナティブとして登場した直観主義というのを実ははじめて聞いたが、超越的存在を認めない構成的なやり方らしい。

この時代における数学基礎論は哲学と渾然一体となっていて、その点が実に新鮮だ。

そして、この論争は、ブラウワーの講演に刺激を受けたゲーデル不完全性定理によって、最も優勢(リベラル)であった形式主義の限界性を示した事で収束に向かう。こののちは哲学とは切り離された数学基礎論という分野が成立すると共に、数学の基礎としては不完全性定理によって限られた多元主義が定着することになる。

数学史の上で、不完全性定理はそういう意味ではかり知れない効果を思想としての数学に及ぼしたわけだ。

不完全性定理後の数学はこういうものになる。

「われわれは経験的なことがらに関わる言語の文法についてのある種の考察を正当な数学として認める。しかし、そのような数学を形式化しようとすると、それぞれの形式化には、日常言語でなら理解できるが、その形式化された言語では理解できない問題がある。その結果、数学は汲み尽くしえないものとなる。すなわち、常に「直観の泉」から再び汲み上げなければならないのである。」by カルナップ

不完全性定理により、記号を運用する主体なしの記号尽くしの世界など文字通りナンセンスであることが示されたのである。けれども、それが数学理論なり、数学的証明の”非合理性”を暴露せしめたというような解釈は到底受け容れる事はできない。ゲーデルの証明自身が、証明論の形式的手順を全面的に活用した非形式的(内容的)証明になっているからである。数学理論の内容や、証明手順総体が”非合理的”であるというのなら、ゲーデルの証明すら受け容れる事はできないだろうからである。ゲーデルの結果は数学的理性が全面的には機械的ではありえないことだけを示した、というのが正しい解釈である。」

ゲーデルは「客観的数学」と「主観的数学」の概念の区別を導入している。前者は、意味論的に真な数学的命題の集まりと考えてよい。ゲーデルプラトン主義的数学実在論の立場に立っているので、「客観的数学」という言葉が使われている事に注意されたい。後者は有限の記号化された手順で証明できる数学的命題の集まりと考えられる。「客観的数学」と「主観的数学」との間には明確にギャップがあることを明らかにしたのが不完全性定理にほかならない。こうしてゲーデルは言う。「数学はこの意味で完全化不可能で、その明証的公理は有限の規則で尽くされることは決してない。すなわち人間精神は(純粋数学の領域内部においてすら)いかなる有限の機械をも無限に超越している」

もう一点面白かったのは、佐々木力による現象学の説明である。それはこういうものだ。

フッサール現象学とは、二十世紀に入り、「意味」を喪失しかねない状況に陥りつつあった現代数学に根源的明証性を取り戻し、「意味」を回復させるための認識論的努力の別名に他ならない」

「要するに、ヘルマン・ワイルは、数学が厳密な学問であり、かつ現実世界に根ざした意味の充満した知的活動であり続けるべきであるという信念をもって数学の基礎的問題に対応した。それに哲学的基礎を与えたのはフッサール現象学であった。フッサール現象学的哲学の歴史的意義は、数学、とりわけ集合論が形成されて以降の無限概念について議論する数学の「意味」を、本格的な哲学的議論の俎上に乗せたことであるといっても過言ではない。他方のワイルは、「意味」ある数学の建設に固執した数学者と規定することが可能である」

哲学と数学を考える事が同じ営みであった1930年代というのがまぶしい時代に思える。