朝から整体に行って小1時間もみほぐしてもらう。2週間に1回ひたすら気持のいい時間を持つのはそれだけでも精神衛生上いいことだ。すっかりリラックスして自転車で帰ってきた。
昨日、近くのTSUTAYAにDVDを返しにいったついでに1階の本屋をぶらぶらしていたら、松岡正剛のブログで紹介していた雑誌「BOKUDEN」を見つけて思わず購入。団塊の世代向けの知的マガジンという触れ込みだ。東京発信でない全国誌&総合雑誌は戦後にその例を見ないそうだ。
京都市中京区発信らしく、中に入っている広告ページが京都のものばかりで苦戦のあとがしのばれる。はっきいって名前どおり垢抜けない雑誌だが、手作り感があって面白いとも言える。団塊の世代の知的層はこんな思想背景を持って、こんな頭の中身をしているのかと妄想できると言う意味では800円の価値はあったかも。面白い記事とそうでない記事のレベルの差がありすぎるのはライターの数が足りないせいだろうかとか考えながら読む。意地でも3号くらいまでは出すだろうが、さて2号を買ったものかどうか。
佐々木俊尚の「フラット革命」を読む。
- 作者: 佐々木俊尚
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/08/07
- メディア: 単行本
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インターネットの世界が日本社会をどう変えていくだろうかという問題を、いくつかの実例の取材を通して筆者が考えていくという本。同様の趣旨では、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」という名著があるが、「フラット化する世界」が文明論だとすると、「フラット革命」は文化論でしかもずっとウエットだ。
「インターネットが現実の社会基盤として完成されたとき、おそらくはソーシャルネットワーキングこそがその中核をなす技術として君臨することになるだろう。
そして、その暁には、人間関係の全てをインターネットに転写し、その全てを可視化したソーシャルネットワークがこの社会の中に忽然と出現してくることになる」
SNSもぴんきりで、私が入ったSNSはずーっと凪である。なので、こういうことを予言されてもぴんとこない。それとも首都圏では事情が違うのか?
「世界を覆いつくすように、そこには意見や認識の分断があり、どうにも乗り越えられない深い河によってこの世界は分断されてしまっている。
本来は、インターネットこそがそうした異なる意見が歩み寄れる場所になるはずだった。
しかしネットが社会に普及しはじめて十年余りが経ってみて、その希望は希望的観測にしかすぎなかったことがわかってくる。意見を異にする人同士は、インターネット上ではなかなか歩み寄れないのが現実なのだ」
「世界で起きている事が全てフィルタリングされ、しかし砂糖菓子のようにくるまれた安心世界に戻るのか。
それとも生々しい現実と相対することが可能で、しかし自分の頼る場所も見えなくなった浮遊社会へと歩みだすのか。
つまるところわれわれは、この二つの世界観の選択肢に迫られているのである。
そして後者の選択肢こそが、インターネットの推し進める、フラット革命の本質なのである。
もしインターネットが今後も普及を続け、社会のインフラとして決定的な存在へなっていくのだとすれば、最大の問題は、この権威が消滅し浮遊する社会において、<公>がどこへ向かうのか−つまり公共性がどうなるのかということだ」
「しかしながら彼ら古い人たち−この元編集者やこの作家の期待に反し、いまやネットの世界は、リアルに限りなく接近しつつある。ネットの世界での評価が、そのままリアルの世界での評価とイコールになる時代は、まもなくやってこようとしている。古い知識人やジャーナリストがさかんに「便所の落書き」「匿名は卑怯だ」とネットを攻撃しているのは、そうした新しい時代への不安であり、恐れでしかない」
インターネットにより社会がどう変わるのかは、切実な問題なのでいろいろウオッチしているつもりだが、まだまだ見えない、というのがこの本を読んだ感想だった。