エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

経済成長神話の終わりは日本国の終わりかもしれないが、日本の終わりではない

昨夜は、人形町にでかけて、友達と地鶏を食べる。親子丼が普通においしい。品の良いぐい呑みをもらう。


平川克美の「移行期的混乱」を読む。

移行期的混乱―経済成長神話の終わり

移行期的混乱―経済成長神話の終わり

骨太のロジックのよい例。

「人口が減少するのは、由々しきことであるといった言説が、政治家からも、経済人からも流布される。しかし、何故人口が減少することが由々しき事態であるのかという理由に関しては、社会の活力が失われるからだといった雑駁な理由以外に説得力のある説明を聞くことがない」

「さらに言えば、常にアメリカの政治的、軍事的庇護を前提としてものを考えるという戦後日本人の思考の型がこのときに定まったといってもよいかもしれない。そして、それは日本が国際的な問題の風上には立たないということも意味しており、政治的属国性を受け入れたともとれる」

60年代−青い鳥の時代
「当時の人々の屈託のない笑い顔をわたしは今でも時々思い出す」
全く同感。なので、そうした人々のいなくなった故郷は見るのがつらい。「故郷は遠きにありて思うもの」がこいう形に変じることを室生犀星が知ったら大笑いするのか顔をゆがめるのか。

「ゼロ成長を生きるためには、これまでに高度成長に備えていたものを切り捨てなくてはなりません。たとえば膨大にある設備投資関連の産業は整理されていくことになるでしょう」

「会社のためでもない、家族のためでもない、社会のためでもない。ただ、目の前の機械、加工を待つ鉄の塊、目の前の「仕事」がなにものかからの召命でるかのように、徹底的に取り組み、没頭する日々」

「ここでも、労働は何ものをも表象しない、ただ生き方に寄り添った活動として描かれている。渡辺京二は、近代化後の日本から喪われた日本人「固有の」労働エートスに対して痛切な愛惜を感じているようである。そしてそれはそのまま、近代化以後の金銭合理的な労働観に対する批判になっている」

「国民の半数以上が、中流であると意識できるということがもつ意味について、当時は誰もさほど深くは考えていなかった。このことの意味が大きく意識されるようになるのは、それから20年を経て「格差社会」が問題にされるようになり、自らを下流であると意識せざるを得ないようなひとびとが巷にあふれるようにからである」

「どんな社会システムにも光の部分と、影の部分がある。産官お馴れ合いや汚職天下り人事の横行、関係官庁と金融界の癒着、国際的な競争力の劣化、地方財政の悪化などなどは、この時代の影の部分であったが、国民生活の安定という政治的な課題から見た場合、つまりは最大多数の最大幸福の実現という意味では、この時代こそひとつの理想の実現でもあった。それが国際政治から見ればどんなに独りよがりのもので、旧弊を温存した不合理な安定であり、歴史的に見れば過渡的なはかない瞬間だったとしても、である」
ただし、これは日本が上記の政治的属国性を受け入れたことで成立した瞬間的理想だったことに留意する。

「高度経済成長期以前の日本人にとって余暇とは何かということは、まさに盆と正月というハレの日に、親戚一同が集まって酒を酌み交わすといった儀礼の中以外には、うまく想像することのできないものであり、日々の糧を稼ぎ出すことの対極にあるのは「なまけ」であり、「あそび」でしかなかったのである」
まあ、高等遊民というのはいるわけで、あくまで一般論として。

「インターネットにせよ、携帯電話にせよ、あるいはコンビニエンスストアにせよ、時代を変化させるものたちは、必ず軽佻浮薄な意匠を伴って登場する」
二重丸。ただし、科学においてはそうでない。例:カオス、カタストロフなど

「このような国内的安定と経済的成長の時代は、長くは続かなかった。保護主義的な経済システムに支えられた一億総中流の時代が持続することを、グローバル化する国際的な状況が許さなかったと言えるかもしれないし、あるいは当の中流意識に染められた人々が、横並びの繁栄というものに満足し続けることはできなかったとも言えるかもしれない」

「この04年の製造業への派遣の解禁は、それまでのプロフェッショナル業務の派遣とはその意味合いを全く異にする。つまり、派遣労働者の権利を守るというよりは、景気反動のなかで人件費を変動費にするという生産調整の手段として製造業派遣が解禁されたのである」
怒。

「現在(当時)の人的リソースをどのように活用してゆくのかを考えるのが経営の要諦のひとつであるにもかかわらず、古くなって使えなくなった機会を新品と入れ替えるがごとき経営観が語られている」

「戦前より、日本的経営と呼ばれるものは、日本の家制度(家父長制、長子相続制)を規範として発展してきた。社長は家父長であり、社員は家族であり、会社は家というアナロジーを大きく逸脱するようなものではなかったのである。終身雇用も、年功序列もまた、日本の家制度の価値観をそのまま踏襲している。雇われ人は、仕事に就くのではなく、家に入って家族の一員として滅私奉公することを強いられ、家父長は家族に対して終身雇用でこれを偶するというわけである。だから、日本的経営にとっては、雇用契約は奉公であり、休暇は薮入りであり、馘首は勘当であった。もちろん、これらは戯画化した表現だが、多かれ少なかれ日本の会社というものの文化の中心には家制度の文化が色濃く反映されていた。
 確かに、こういった民俗学的な習慣の上に培われた日本型の会社経営といったものが、グローバル標準から大きく逸脱していくことは避けられないことであった。しかし、そのこと自体は、よいとか悪いとかいった価値判断とは別の水準に属する問題であり、どのような会社システムにするのかは、経営者と従業員が共同で作り上げ選び取っていくべきものだろう」

「アメリカン・グローバリズムが破綻した理由は、アンチ・グローバリズム圧力に敗れたからではなく、グローバリズム推し進めたアメリカ型の略取のシステムが世界に広がった結果として、世界がアメリカを略取することを学んだ結果なのだ。中国、ブラジル、ロシア、インドの急速な台頭こそは、まさにグローバリゼーションの効果なのである」

「ここで言う「哲学的方法」とは、理解できないことを簡単に否定したり、特別な並外れたものや、超自然といつたものを信じないということであり、明瞭で合理的なものだけを信ずるような実効的現実的な思考法のことである。それをプラグマチズムといってもよい。」

「総人口の減少を食い止める方策は、さらなる経済成長ではない。あるいは経済成長を続けるための方策は
総人口の再増加でもない。むしろ、それとは反対の経済成長なしでもやっていける社会を構想することである。その構想がひとびとに共有されたとき、人口動態もまた平衡を取り戻すはずである」

「倫理崩壊を起こしているのは、不祥事に直接手を下したかれらではない。
会社で働くわたしたちと同じ人間が、わたしたちが育ててきた「信仰」のゆえに倫理を踏み外している。「信仰」で語弊があるなら「集団的価値観」と言い換えてもよい」

「わたしには、人口減少局面とは、民主化の伸展によって女性の地位が向上し、家族形態が変化し、関係が分断され(むしろ進んで孤立化し)、個人中心の生き方ができるところまで文明が進んだことの複合的な結果であり、自然としての人間と文明化した出来事だと考えた方が自然なことのように思える」

「逆説に聞こえるかもしれないが、むしろ人口が減り続けることだけが、人口減少を食い止めることができるのだとわたしは考えているのである。つまり、現在の人口減少は、増えすぎた人口と、近代化の頂点に至ったし夜会との間で起こっている、人口調節なのだということである」

「歴史がこの先どのゆな帰趨を辿るのかを説明するための単一の指標というものは存在していない。トッドの慧眼は、何を指標にしたらよいのかということについては、さしあたりいくつかの曖昧な変数を見出すことは可能であるが、何を変数としてはいけないのかということだけは、明確にすることができるということを発見したところにある」

「つまりイスラムは、識字率や人口動態とは関わりなく世界中に分散しており、それゆえに、それぞれの国の民主化の進展と有意な相関はないということを示して見せたのである。
イスラムは、他の宗教と比して歴史発展を阻害する特殊性などは持っていないと

「・今、callingという価値観が何となく貶められていますよね。
・貶められてるし、ものすごくいびつ形ででています。若い人がよく就職相談で「僕にしかできないことってなんでしょうか」とか「他の人になくt、僕にしかない素質ってなんでしょうか」なんて言うけど、自分しかできないことっていうのもひとつの病だと思うんです。こういう歪な形でしかcallingの感覚が出てこない感じがするんですね」

「僕はアメリカで10年くらい会社をやってたいんですが、アメリカの人たちって「win-win」っていう言葉が好きなんですよね。だからアメリカ通の人は、プレゼンの中にそれをいれろって言うんですよ。なるほどなと思って、簿kも当時はしっかり入れましたよ。でも、win-winって言うのは、僕とお前の両方が得をするけれども、どっかで誰かが損しているから成り立つんですよね。友人の内田樹は、「win-winは嘘だ。lose-loseが本当なんだ」と言うんです。
三方一両損という言葉が昔からあって、これがパートナーシップの基本でwin-winというのはパートナーシップではないと。金を儲けることが、同時にビクトリーであるっていうプラスのイメージと強く結びついている。でも昔は、お金はマイナスのイメージとかなり結びついていましたよね。つまりケチやしみったれ、吝嗇なんかと。」

「工業においては少しの時間で最大の生産量を目指すべきですが、農業の方は急いでしまったら最悪なんですよね。熟すぎりぎりまで待って、夏はしっかりと太陽の陽をあびさせなきゃならない。前近代的な産業社会は、そういう対立する2つのベクトルを持った時間感覚を一人ひとりが持ち合わせていた時代だと思うんです。ところが、1次産業の縮小と同時に、待つという間隔がどんどんなくなっていった」