エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

なぜ「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のか

昨日は田町で会合がありでかける。暑さがぶりかえしたねぇというのがお互いの挨拶代わりで、新潟から来られた先生は、温度は同じくらいでも空気が違うと言われる。


野矢茂樹の「『論理哲学論考』を読む」を読む。


熊本のK先生の話で、「私は理解できない」ということをはじめて明示的に語ったのはウィトゲンシュタインだ、というのを聞いて以来、この哲学者のことが気になっている。その前から「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な殺し文句に誘われて、紹介書をちらほら読んでいたが、少しまじめにかじってみようと思った。ところが原著はあまりにとっつきが悪くて予備知識無しにはとても無理。ということで野矢茂樹


(野矢流の)骨子をつかむにはこれで十分。結構楽しく読める。


骨子は流布している印象とは異なり、こういうことらしい。


「『論考』は、語りえぬもの―論理、自我、倫理―を沈黙の内に受け入れようとした著作にほかならない」
「論理と並ぶ、あるいは論理以上に重要視されるもの、それは倫理である。倫理もまた、語りえず示されるしかない。そして語りえぬとして却下されるのではなく、語りえぬがゆえに語りうるものよりも一層重要とされる。そうして、善、悪、幸福、価値、生の意義、こうした話題がそっくり語りえぬ沈黙の内に位置づけられる。ウィトゲンシュタインのその手つきは、あたかも「語る」ことによってそれを卑しめてしまわないようにするかのごとくに見える」

ウィトゲンシュタインは経験による検証を、一括して「科学」に属するものとみなす。他方哲学はひたすらア・プリオリなものに関わる。「語りうるもの」とは科学であり、それに対して、ア・プリオリなものなものこそが、『論考』が明示しようとしている「語りえぬもの」たちの中核なのである」


この主張にいきつくためには、論理の限界、思考の限界、言語の限界についての展開が必要になる。たとえばこのとおり。

「このことは、論理空間の限界を語ることができないということに直結する。論理空間の限界を語るためには、この論理空間に存在する対象たちについて「これらは存在する」と語り、さらに、この論理空間に存在しない対象たちについて「あれは存在しない」と語らねばならないだろう。しかし、それは不可能なのである」
「われわれはどれだけのことを考えられるのか」

あるいは、

「かくして思考の限界と言語の限界は一致する」


実は、この「かくして」の前に、結構延々と、命題、論理空間、名といった堅固でとっつきの悪い話がえんえんと出てくるのだが(原著がよめなかったのはそのせい)、野矢茂樹はそのあたりをさっそうとさばいて、話の中核まで持ってきている。このあたりは名人芸としかいいようがない。

しかし、もちろん日曜読書家には細部の理解はheavyである。たとえば、

「『論考』は、この現実とこの言語を引き受けた私がどれほどのことを考えうるのかを確定しようとした著作である。そして『論考』が思考可能性の総体を見通しえたと信じた仕掛けは、単純に言って、「操作と基底」という構造にあった」

ということで、おそらく理解度はかろうじて50%というところ。ウィトゲンシュタインがいいたいことはわかった気がするが、なぜそうならなければいけないのかは話にはついていけても、「えっ、本当」というところが多いので、それは理解できていないということだろう。


ともかく、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というのがどういう気分で語られているのかは感じ取れた。