エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

過去中心主義の時間論

活動的な連休を送っている。

土曜日はH師匠の話を聞きに出かけた。日曜日は松本幸四郎松たか子の「ラ・マンチャの男」を見てきた。たまたま最前列の真ん中という極上の席だったので、すごい迫力だった。手を伸ばせば届きそうなところで演劇を見たのは初めてだ。松たか子はオーラが出ていたし、松本幸四郎の喉は素晴らしかった。思い浮かべていたのは、恩田陸の「チョコレート・コスモス」。

チョコレートコスモス

チョコレートコスモス

小説版「ガラスの仮面」という外観で、あまりにベタなせいか、書評家は相手にしていないようだが、再読に耐えるところを見ると、実は結構深いところに届いたいい作品なのではないかと思っている。副主人公は松たか子のあて書きと思しいのだが、小説のクライマックスの「欲望という名の電車」の舞台のシーンが目の前の舞台にかぶってきて、重層的な面白さがあった。

そして今日は、嵐山の北にある愛宕山に登ってきた。上りに2時間半、下りが2時間弱。これだけ体を動かすとすべての雑念が汗になって吹き出してしまい、まことに爽快。こんなに長時間筋肉を使ったのは随分久しぶりだったので、膝の関節のところの筋肉ががたがたになってしまい、帰りのバスを待つ間もずっと筋肉がぷるぷるしていた。明日が怖い。

中島義道の「時間論」を読む。

時間論 (ちくま学芸文庫)

時間論 (ちくま学芸文庫)

中島義道が流行る時代というのがどうにも腑に落ちない。私が読み始めたのは、南木佳士が、その文章の純文学めいた論理性(理屈っぽさ?)を嘆賞していたのがきっかけだが、好んで読んでしまうようになったのは、妙な味の偽悪趣味にかさぶたをはがす時のような爽快感を感じるからだ。

とはいえ、中島義道は実はしごくまっとうな哲学者で、おまけに(多分)大森荘蔵の弟子であるから、彼が書いた時間論には二重の意味で興味があった。

当然のことだが、大森荘蔵の時間論とは随分違ったものだった。キーワードは、「過去中心主義」。時間論としてはかなり変わっている。(少なくとも私ははじめて聞いた)

「時間認識は徹底的に「想起」という作用を中心に成立し、「想起している時」が現在であり「想起の対象の時」が過去である。よって、想起能力のないものは時間の認識能力もない。過去を形成する能力のないものは時間認識能力もない。すなわち、正確な思考能力と知覚能力をもった存在者Pがいるとしても、それに想起能力がなければ「現在」という意味さえ与えることができないのである」
「時間について思索する限り、時間は<いま>という想起する場においてもうひとつの<いま>を想起の対象として確定することによって、すなわち過去の登場とともにはじめて成立する。時間認識以前に時間としての「現在」の存在はない。時間成立以前にそこに存在しているものは、じつは時間としての現在というあり方ではなく、「時間以前のもの=X]なのだ」

好き嫌いで言うと、私は大森荘蔵の「現在中心主義」の方が好きだ。だが、中島義道の時間論には不思議な説得力があって、「これもありかも」と思わされてしまう。というか、より正確には、「この時間論は誰のためのものだろう(物理学者のためではあるまい。哲学者のためか、反現象論学者のためか、あるいはただの生活者のためのものか)」という想いに誘われる。

ただ、こういう下りがいきなり出てきたりするので、単なる実感主義者の議論とも思えない。

フッサールの誤解は、時間を刻々と流れるイメージで捉えたことである。これは、根深い誤解である。ある現象を「刻々と流れるもの」として捉えることは、時間ないし時間意識の成立を意味しない。それはただ、そういう変化を変化として了解する意識の成立であり、これは時間了解に必要ではあるが、それだけではまだ「時間以前のもの=X]にかかわる意識である。というのも、こうした意識をもちながら時間を全く了解しえない存在者Pを想定することは可能だからである」

納得したわけではないが、いろいろ考えを誘う本だった。