エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

プルーストとイカ

センター試験の頃は決まって寒くなるという記憶があるが、今日は朝から陽も差して穏やかだ。明日は試験監督で一日大学にいなければならないので、のんびり過ごすことにする。

メアリアン・ウルフの「プルーストとイカ」を読む。

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?

この本は、読字が脳の本来の能力ではないにもかかわらず、どのように人類が読めるようになったのか、そしてそれが何を意味するかを語っている。この本の魅力は読書がどんなプロセスであるかを、発達心理学認知心理学の背景から事細かに分析してくれているところにある。流暢な読書がいかに広範な脳領域を巻き込み、認知の地平を広げるかについての描写は実に巧みである。

そして同時に、読書能力が生得的なものではなく、いわば他の生得的な脳の能力をリサイクリングし、うまく結合してできあがっているものであること(つまり読書の遺伝子はないということ)を静かに説得している。

だからこそ、著者が繰り返し述べように、文字文化からデジタル文化への移行により最も良い意味での読書能力(それは思索や共感能力を含む)が損なわれるのではないかという危機感を読者は共有することになる。

第1部ではアルファベットの誕生に焦点をあてて文字の発生とそれに伴う脳の変化を扱う。ここで印象に残るのは、ソクラテスが話すことにこだわり、書き言葉の普及に反対したということである。

「第一には、ソクラテスは、話し言葉と書き言葉が個人の知的生活において演じる役割は全く異なると断定した。第二に、書記言葉が記憶と知識の内面化とに課する新たな、しかも音声言語よりはるかに甘い要求は、悲惨な結末をもたらすものだと考えた、そして、第三に、音声言語が社会における倫理性と徳の発達に担う独特の役割を熱烈に支持したのだ」
「私は、2000年以上も前にソクラテスリテラシーについて提起した疑問が、21世紀初頭の数々の問題を指し示していることに気づいて愕然とした。口承文化から文字文化への移行と、それが特に若者達にもたらす危険についてソクラテスが危惧した事が、デジタルの世界に没頭している現代の子供達に対して私が懸念していることとぴったり重なるとわかったからである」

第2部は、この本の肝で、子どもにおける読字能力の発達を順にたどり、その過程で何が起きているかを説明する。3歳から5歳までの読み聞かせの回数が読字能力を左右することや、5歳から7歳までに子どもは「読字初心者」から「流暢な解読者」へと目覚めることが語られる。

第3部は、第2部の裏返しで、脳が読み方を学習できない場合ーディスレクシア(読字障害)−についてである。

「込み入ったディスレクシアの物語は、人類の進化の昔に始まるべくして始まった。その背景を最もよく知っているのが、アンドリュー・エリスである。ディスレクシアの正体は何であろうと、”読字障害”だけではないと断言したのだ。エリスが注意を促したのは、人間の進化という観点から言うと、脳は決して文字を読むために作られたわけではないという事実である。ここまで見てきたとおり、脳には読字専用の遺伝子もなければ、生物学的構造物も存在しない。それどころか、文字を読むためには、本来、物体認識やその名称の検索など、他の作業のために設計され、遺伝子にもプログラムされている古くからの脳領域を接続し、新しい回路を形成する事を、一人一人の脳が学ばねばならないのだ。そうしてみると、ディスレクシアが脳の”読字中枢”の欠陥といった単純な問題であるはずがない。そもそも”読字中枢”など存在しないのだから」

そして著者は、エジソン、レオナルド・ダ・ビンチ、アインシュタインなどディスレクシアの天才の例を挙げながら、ディスレクシアが何を喪い、何を得ているかを慎重にたどっていく。

ディスレクシアの人の脳は、左半球に問題があるせいで右半球を使わざるを得なくなり、その結果として、右半球の接続全てが増強されて、時には、何をするにも独自のストラテジーを展開するようになったのだろうか?それとも、最初から右半球の接続の方が優位にあって、創造力に優れていたために、読字などの活動を引き受けるようになったのだろうか」

近年の脳イメージングの革新はディスレクシアの物語を白紙から検討することを可能にしている。そして著者はこう書く。「ディスレクシアは脳が代償のために用いた戦略のすばらしい例だと判明するだろう」と。

読書することの恩恵と不思議を再認識させてくれる一冊だった。