エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

透明な器の中の炎

雨だれの落ちてきそうな土曜日、代々木に出かけてN響のプログラムCを聴く。アシュケナージの指揮で、庄司紗耶香とオラフソンのヴァイオリンとピアノのための協奏曲ニ短調メンデルスゾーン)。

 

Classicを好んで聴くようになったのはG. Gouldのゴルドベルク変奏曲がきっかけだったので、30半ばまではピアノ一辺倒に近かった。弦楽器はカサルスの無伴奏チェロ組曲を少し聴いて、少しだけ諏訪内晶子に寄り道したが、ヨーヨーマの無伴奏チェロ組曲を大阪のシンフォニーホールで聴いてからは、長いこと彼のチェロを好んで聴いてきた。そのせいでピアノよりも弦楽器の方が今は好ましく感じる。Youtube五嶋みどりの演奏を聴いているうちにふと庄司紗耶香の演奏を聴いて、何かの記事で彼女が共感覚の持ち主であることを知った。彼女のチャイコフスキーの例の協奏曲(チャイコン)は非常に好ましい。ということで代々木にでかけた。

 

メンデルスゾーンは早熟の天才と教科書には書いてあるし、おそろしく達者なのだが、モーツァルトのような天から降りてくる音楽という気がしないので、実は今回も庄司を聴きに行ったようなものだった。聴いているうちにその認識は変わって、はじめてメンデルスゾーンが良い音楽だと感じた。メンデルスゾーンの音楽は非常に透明な器であろう。演奏者の中で炎が燃える時、強くて澄んだ輝きが聴き手の胸に飛び込んでくる(NHKホールの二階席はそういう意味で絶好の位置にある)。

音楽、良い音楽とは生を感じさせるものだろう。そういう意味では、庄司の衣装が素晴らしい選択だった。演奏会なので、男性は黒い燕尾服、女性も黒いドレスかパンツスーツでそろえてある。庄司は上は黒、下は赤のイブニングドレス(たぶん)を選んだ。赤はオレンジが少しだけ混じったvividで品のよい色。そこに何の模様かわからないが黒いデザインが入る。結果、黒い動作の群れの中でvivid redが非常に映える。音楽が華やかすぎるくらい華やか(あまりに華やかな時には哀しくなるものだが、彼女の場合はなぜかそうならない。知性と音楽性のバランスがいいからか)なので、視覚的効果がさらに強められる。良い演奏でした。秋の演奏会も楽しみです。

音楽・絵画・意識

音楽についても変分法的見方をすれば、絵画のように一望してその構造を眺め渡すことができるだろう。

 

これは、野矢先生の『眺望論』とどういう関係に立つだろうか。直接的は関わらないはずなのだが、意識の構造が変分法的なもの(無時間的なもの)とそうでないもの(時間的なもの)に立ちうるということか。

 

記述できないことは、本当は問題ではない。記述できなくてもそれは存在している

今日、池の端にあるベンチに近寄って朝の緩やかな日差しを背中に受けるように座って、100メートルほど先にいる水鳥を見ていた。

 

「記述できないことは、本当は問題ではない。記述できなくてもそれは存在している」と思った。極端な簡略化を施すと、ヴィトゲンシュタインが『論考』で書いたことがこの2文で尽くせる。彼が第1次大戦の戦場で彼の哲学を構築しなければならなかったことを考えると。

 

なぜ「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のか - エヌ氏の成長・円錐

計算機の哲学 computer-enhanced phylosophy

1)正確な表現ではないが客観的存在と主観的存在にわけるとすると、まず主観は現象学的経験からわかるとおり、「夢か現かわからない」がゆえに純粋な意味での(あるいは厳密な意味での)因果は存在しないという主張が可能である。また客観も、それが存在であれば広い意味でのカオス理論(あるいは非線型世界理論とも言うべきもの)により、純粋な意味での因果は存在しないと主張が可能である。

 

純粋な意味での因果が存在しないのであれば、存在するのは因果モデルであろう。

 

2)ブラウアーの直観主義がうまく行かなかったことを今の視点から振り返ってみると、単に計算のパワーが足りなかっただけではないのだろうか。では今、計算機の力で新たな直観主義を成立させるには何があればいいか。

 難しさの性質というものを考えてみると、非線型科学と直観主義の間にある種の類似を感じる(勘であるが)。さてこれは偶然だろうか。

無限に深い闇の間を補う方法論

朝、すぐそこの公園に行く。まだほとんど車も通らない時刻だ。夜が明けて30分。緑の濃さを一際増した葉桜の向こうにひどく薄い青の空が広がる。ゆるやかな風に吹かれる。

 

伊庭幸人先生が編集した「ベイズモデリングの世界」を読み始めた。

 

ベイズモデリングの世界

ベイズモデリングの世界

 

 

「過去10年のデータサイエンスでの最大の驚きは、ディープニューラルネットワーク(DNN)とくに敵対的生成ネットワーク(GAN)が高い能力を示すことが示されたことだろう。これが「生成モデルに基づく統計学」としてのベイズ統計の観点からどういう意味をもつは、いまだ未知数である」

伊庭先生がこういうとかなりの説得力がある。モデルの物理的側面と統計的側面の両方を同じに見て取れるのは、お若い頃からの修行の賜物だろう。

 

1章のタイトルが恰好いいので読み返す『平均値から個性へ』

「データのそれぞれは、それ自体では夜空にぽつんぽつんと輝いている星々のようなもので、その間には無限に深い闇がある。そこから何かを引き出すためには、なんからの意味で似たものをまとめて間をおぎなう操作が必要である。それをここではモデリングと呼ぼう。モデリングなしに、法則を引き出したり予測を行うことはできない―という認識から、統計学がはじまる」

ここで具体例をいくつか考えると論旨は明快になる(はずだ)。進化(現生人類とチンパンジーの間にはあまたの霊長類がいたはず)。職人の作る日本刀。あなたに話しかける私。

 

「本書では、明示的なモデリングによってデータに含まれる豊かな情報を取り込んでいく、というタイプの統計科学を紹介したい。― この例でそれまで決まったものとしていた曲線fを確率変数とみなしたように、いままで定数だと考えていたものを確率変数と読み替える、というやり方はさまざまな場面で有効である。たとえば、いま述べるのとはほぼ同じことを、空間的な不均一性でなく、時間的な非定常性について考えることもできる。そのためには、状態空間モデルの形に表現するのが便利である」

 

ふーんと思って読んでいるうちにこんなところにぽんと顔を出す

「今のように確率構造の全体が仮定されている場合には、式(9)を使うと、統計科学の仕事のうち「モデルの推定・評価・利用」の部分の大半が片付いてしまうーこのように、すべての変数の同時確率のモデリングを行って、それにデータを入れれば、式(9)によって自動的に答えが出てくるので、ある意味、「算数」から「代数」に進化したときのような快感がある」

 

「現象を支配するマクロな変数を直接観測し、その間の法則を解明する事が、科学の任務であり、また、工学の主要な手段であるという見方は、いわば熱力学的な世界観と呼べるかもしれない。これに対応するものが「平均値」の統計学だとすると、これからますます重要性を増すと考えられる「科学の島々の間にひろがる世界」に対応するためには、ミクロな情報を安易に捨ててしまわない、よりソフトに構造を捉える統計科学が必要とされるのではないだろうか」

この明快さが(過剰な明快さが)伊庭先生らしい。これは確信犯だし。

 

「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」

朝、池の周りの木々と青空を見上げると風が流れるような気がする。働き始めたばかりの上の子に送る写真を撮る。

 

佐々木 中の「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」を読む。

 

 

「よく『未来への責任』と言うけど、これは『過去への責任』だと思う。過去から与えられたものを、ひとたび受け取ってしまった。それはあまりにも重くて、しかも血まみれなんです。けれども宝なんだ。そこで目を背けて目先の利益に拘泥するか、3万5千人の死を無駄にしないように動くかかどうか。それはわれわれの双肩にかかっている」

生存権を得るために3万5千人も殺されなければならなかったというのは、われわれ人類にとって恥辱です。だが、これを守れなくてどんどん死者を増やしていったら、ますます恥辱が募るだけでしょう」

 

「ルターははっきりとこう語っています。『私は聖書の言葉から遠ざかってしまうくらいなら、ドイツ語が傷つけられることのほうがむしろ好ましかった』。ルターは、母の舌(母語)を傷つけることを選んだ。---話し言葉に近い方言の語彙を多用すると同時に、その方言を洗練させ、共通語とする作業を行っている。そのために敢えて造語もしている。そのような努力をしつつ、民衆の言葉でイエス・キリストが、われわれの訛りでイエス・キリストが語りかけてくるという、驚くべき本と言語を『製造』したわけですね。ここに後世に巨大な精華を残すドイツ語が成立する」

「いいですか。講演の冒頭に述べたとおり。外国語はなかなか読めないし、その翻訳は読みずらいと皆いうわけです。でもね、あななたちに日本語が読めますか。日本語がしゃべれますか。日本語が書けますか。そんなことが本当に可能なのか。そうカフカヘルダーリンは言うんです。これが本当にものを考えるということです。本当の文学者が考えることです。言葉と戦っている人間が考えることです」

「でも、それでも母語が読めてしまうし、書けてしまうという、この驚きがある。ヘルダーリンカフカのような人たちが狂気を賭けた、この驚嘆すべき場所が存在する。何処に。本に。」

坂口安吾ー人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ」

「借り物だって構いやしない。他者がもっているものがわれわれの実生活に本当に合うものかもしれないではないか。そんなくだらない面子は捨ててしまえばいい、とね。他者の文化に晒され、故郷を見失うという苦難のうちにおいてのみ、安吾は『日本文化』を見ている」

 

震災直後の大阪での催しの最後の講演で。

PTSDにおいて、フラッシュバックしてくる映像というものはまず『止まっている』ように見えるわけです。静止、あるいはほぼ静止していて、なおかつ異常に鮮明である」

これは脳神経科学の枠組みで説明できるような気がする。映像記憶は通常は文脈で記憶されるので、時間の流れやその時の気持ちのようなタグ付けがされている。連合記憶でもある。ここでPTSDはそうしたタグとは無縁にいきなり立ち上がる。唯一似ているとすれば、アスペルガーの方の写真記憶というものだろうか。これは分子ではなく、回路やシステムの問題だろう。

 

「だが、かすかな希望があるとすれば―臨床的に証明されている希望があるとすれば、トラウマを負っていると自分で気づくことができた人は、他者のトラウマにきわめて寛大になるということです。--(一方で)厄介なことがあって、戦争や災害のトラウマというのは、強く言えば『遺伝』するんですね。中井久夫が不意に指摘していて驚いたことがあります。つまり、アドルフ・ヒトラー第一次世界大戦に行って、毒ガスで喉をやられてあの声になったんですね。中井氏は、ヒトラーは戦争神経症者ではないかというのです」

チャーチルが遺伝的背景の強いbipolarであったというのはほぼ確実であり、そのことは彼の大きさをいささかも傷つけない。他方で、ヒトラーが戦争神経症者であるとするならば、第1次世界大戦が個人をとおして第2次世界大戦を招いたという歴史と個人の絡む皮肉が浮き上がるのではないか。やはり心理歴史学はどこまで行っても無理なのか。

 

「ヴェールとその裂け目から成立している『真理の体制』、真理のトリックを静かに揺るがすものとしての絶対的なイメージがある。外傷的であり、なおかつまた証言でもあるイメージ、つまりその表面で過去と現在と未来が攪乱され、錯綜する時間藝術としてのイメージが存在する。ただ虐げられて苦しめられているだけではないイメージ―。それは『疵』として置かれ、未来に投げられる。イメージは疵であり、そうでなくてはならない。絶対に存在しない『静止画』は、しかしその時には実在しないことによって主体を作り出し、結ぶ。そうした『疵』として来るべき時に託されなければならない。イメージは疵である。それは残留する」

この文章に私は村上春樹の長い影を見る。壁のむこうで大きな輪をまわす女のかげ。

 

「われわれは傷つき、じわじわと疲労している。今度の震災で明らかになったのは、われわれはじり貧だということです。少しずつ疲れているということです。何かしら穴が開いてしまって、力が抜けている。貧困も格差も自殺も、時代の閉塞は全く解決されないまま、このような状況になってしまった」

「なんのために。  贖わなければならないわれわれの恥辱を、我々自身のこの手で贖うためです。屈辱でなく恥辱を。この人間の生き延びる術たる藝術において、どんな恥辱があっても、われわれの藝術は野蛮にも屑にもならない。その恥辱こそが、われらの藝術の変革を政治的革命にするのです」

「私は嫌ですー決して腰抜けにはならないということ、です。みなさんは今日、この『腰抜け』というディスを、新しい批判の言葉を持って帰ってください。どいつもこいつも腰抜けだらけさ。子供にも、腰抜けにもなりたくはないんだ。『再軍備やむなし』とかそういうことをいう奴が腰抜けなんです。『原発やむなし』とかいまだに言ってる奴は腰抜けなんだよ。弱虫なんだ」

 

「無限者である神は自分の姿を知ってはいけない」

村上春樹の「騎士団長殺し」において、リンボを流れる川を渡してくれる川守の顔を主人公は見ることができない(渦がまいている?)。この意味がどうも不明瞭だったが、彼は神(半神)だったのだと考えると腑に落ちる。

 

内田樹佐々木中がいる間は、そう簡単に言論が封殺される時代はこないだろう。私たちエンジニアはその間に次の社会を可能にするフレームワークを作ることを責務と感じていればいい。

認知神経科学の枠組みで、意識における不確定性原理の相当物は発見できるだろうか

tnakamr.hatenablog.com

以下は、リー・スモーリンの「迷走する物理学」の一節。

 

「最近は、量子重力の研究をしている者はたいていが、因果性こそが根本だと−したがって、空間の概念が消えた水準でも意味をなすと−信じている。量子重力への取り組みで、これまで一番うまくいったものは、この3つの基本的な考えを組み合わせる。空間は創発するもので、離散的な記述の方が根本的で、この記述は根本的な形で因果性を含むということである」

 

世界が本質的に離散的であるのに、われわれのこころ(「意識」)にそれが連続的に見えるのはなぜか。

 

ここで、ファインマン量子力学に対する基本的な比喩を持ち出そう。

「机の上に私は手を置いてみる。当然のごとく、私の手は机に突っ込むことはなく、手は机の表面でとどまり、通り抜けることはない。しかし、素粒子論の素朴な仮定のみからすると、空間に離散する点どうしである机と私の手は相互に侵入しあっていいように思える。私はまず、それがそうならないのは確率的な話ではないことを生き物として知っている。(私の100年の生涯で1回起きることがある可能性はあるという類の話ではないという意味で)。なぜなら生物進化の歴史がそれを帰納的に証明しているから(Really?)。さて、しなしながら、私の量子力学に対する理解はその上に立って、私の直観を肯定する。その中心部に存在するのは、不確定性原理である。距離の不確定性と運動量の不確定性の積はごくごく微小なある量以下にはならない、というあれである。その後、ベルの不等式によって、その実在はさらに厳密に定められた。したがって、私の手は机に突っ込むことはなく、手は机の表面でとどまり、通り抜けることはない。(q.e.d.)」

 

これをわれわれのこころ(「意識」)に比喩的に拡張する(あるいはパラフレーズする)ことを試みてみよう。…。実はこれに対する答えが21世紀前半の神経科学の聖杯となるだろうと私は予想している。つまり、認知神経科学の枠組みで、意識における不確定性原理の相当物は発見できるか、あるいは構成できるか、という問いである。これは不可換性脳科学ということも可能であろうが、将来の拡張性を期待して、私はこれを非線型脳科学と呼ぶ方が好きだ。

 

ここに存在する対称性は数理科学に共通して見いだされる美しさ、つまりネータ定理そのものである。現在の数学はまだその内包と外延の完全な理解にまで到達していないと思われる。したがって、やはりもっとも難しい数学は離散の極みである整数論であるし、そうであるのは、離散的存在であるわれわれのこころがなぜ連続を実在と感じるのかという「存在そのものに内在する矛盾(より正確な言葉で言い直すと不完全性」に起因する。