エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

脳は情動のインスタンスを生成する

2020年は1日、2日と穏やかな晴天。昨年末から土井コーヒーのドミニカ・リリオス農園を飲んでいる。独特の甘さと香りがある。

 

リサ・フェルドマン・バレットの「情動はこうしてつくられる」を読む。

 

 

濃厚な中身。ちょうど冬休みに入ったので、すぐに再読に入る。二度目はさすがに少しずつ整理できる。ようやく全体像が頭で結んだ時に「情動を含む人間の精神活動はこんなにもフォン・ノイマン型コンピュータの動作と違っているのだろうか」と思った。

 

この本は、情動を対象とした認知科学において、フェルドマン-バレットらがこの十年来主張している「構成的情動主義」を扱っている。著者の要約では「構成的情動主義」とはこのようなもの。

<目覚めている間は常に、 脳は、概念として組織化された過去の経験を用いて行動を導き、感覚刺激に意味を付与する。関連する概念が情動概念である場合、脳は情動のインスタンス(具体的な例、というほどの意味)を生成する>

「1990年代後半における シミュレーションの発見は、心理学と神経科学に新時代をもたらした。科学的証拠に基づいて、私たちが見る、聞く、触る、嗅ぐものは、 たいていは外界に対する反応ではなく、それに関するシュミレーションであることが明らかにされたのだ。先見の明のある科学者は、シミュレーションを知覚のみならず、言語、共感、想起、想像、夢などの心理現象を理解するための一般的なメカニズムとみなすようになった。常識的な考えでは、思考と知覚と夢はそれぞれ異なる心的事象だと思われる。だがそれらは全て、一つの普遍的な過程によって記述できる。シミュレーションは、あらゆる心的活動の基本をなし、脳がどのように情動を生成するのかという謎を解く鍵でもある。」

「脳内でどのように情動が作られるのか?。私たちは、予測をし分類する。他の動物と同様、 身体予算を調節するが、その場で構築する「幸福」や「怖れ」などの純然たる心的概念でこの調節を包み込む。そして私たちは、心的概念を他の大人と共有し、 子供に教える。かくして私たちは、全く新たなタイプの現実を構築し、大抵はその事実に気づくことなく、 その元で日々を暮らしている。」

 

「古典的情動主義」では、「生得的で普遍的な情動があり、健康な人なら世界のどこに住んでいようと、それを示したり認識したりできる」ことを前提にするが、そうしたヒトに普遍的な特定の(怖れや怒りや幸福)情動の本質、およびそうした情動に必ず伴う身体的指標は存在しないという観察(メタ分析)が、「構成的情動主義」の出発点であり、本質主義に基づく古典的情動主義とは反対の方向にどんどん進んでいく。その過程で、「偏桃体は情動の中枢である」とか「情動と理性の対立(好むように暴走しかねない情動を理性がコントロールすることでまともに生きていける)」、あるいはラットでの「恐怖条件付け」といった、情動を対象とした認知科学の古くから存在し、あるいは十年位まえに一世を風靡し、現在も分野の大勢が指示しているいろいろな主張や概念が問い直される。

 

フォン・ノイマン型コンピュータは、プログラムとデータが同じ記憶装置に蓄えられて動作するというものだ。この構成からわかるように、同じ入力がくれば同じ出力を出す。それを考えると、計算論的神経科学で情動を扱う難しさは何となく感じ取れる。現在は、その点を、ベイズ脳、予測符号化、自由エネルギー最小化といった道具立てで乗り越えようとしている(参考文献として、乾敏郎著「感情とはそもそも何なのか」)が、その計算論的神経科学と同じ動機で出発しながらも、」の出発点であり、構成的情動主義はより大胆なところに打って出ている。でも説得力はある。

 

今、手掛けている研究が情動と関わってくる可能性があるので、講義の勉強を兼ねて読んでみたのだが、予想していなかった大胆な内容でまだ咀嚼しかねている。