一週間後に講義の予定が入っている。癌遺伝子によるシグナル伝達をイメージングで捉える技法を説明する医・工連携の講義である。前振りに癌についての概論をしたいのでいろいろ資料を集めていると、立花隆がイチオシのブルーバックスがあるというので、早速購入して読んだ。永田親義の「がんはなぜ生じるか」。
がんはなぜ生じるか―原因と発生のメカニズムを探る (ブルーバックス)
- 作者: 永田親義
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/12/21
- メディア: 新書
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永田氏はがんセンターの生物物理部の部長を勤めた専門家だが、もともと福井謙一の研究室で量子化学をやっていた関係で、がん研究の流行と距離を置いた視点からいろいろな説を整理している。開巻冒頭いきなり「発癌メカニズム研究の現状は混沌としている」と爆弾発言。私のいる研究室は癌遺伝子によるシグナル伝達がメインテーマなので、「癌遺伝子や癌抑制遺伝子の突然変異が癌の原因である」という突然変異説に首までどっぷり漬かっている。もちろん来週の講義も突然変異説を定説として説明した上で、話を細かいところに進める予定であった。思わず、本をつかむ手に力が入って一気読みした。
永田氏の説くところによれば、突然変異説は80年代に最高潮に達したドグマで、いろいろ強力な反論がある。たとえば変異原性と発がん性が並行しないことはかなり致命的であり、突然変異説ではがん組織のほとんどが異数体でありheterogenousであることを説明できないのも大きな弱点である。
発癌メカニズム研究のもうひとつの大きな流れはエピジェネティクス説、つまりDNAの一次構造に変化はなく、遺伝情報の発現の仕方が変化することによりがんが起きるという考え方である。たとえばDNAメチル化の異常などがよく研究されている。
永田氏のたとえでは、突然変異説とエピジェネティクス説は、光の波動説と粒子説のようなもので、つまりは発癌メカニズムの研究と言ったって量子力学以前の物理学なみでしかない(それくらい混沌としている)そうである。
さらには最新の説として、がん幹細胞説(組織に少数存在する幹細胞が癌化して、がん幹細胞になる)があるので、あたかも本命、対抗、穴馬状態である。
講義の一週間前にこういう本を読んでしまうのは困りものである。でもまあ仕方がないので、突然変異説でひととおり最後まで講義をして、最後に「いやでも実はね」といって、この本で得た見方を説明しておくことにした。「突然変異説といったって、所詮ドグマじゃないですか」とかを授業の感想で書かれるのもへこむので。
実は、昨年度1年かけて、研究室で輪講会をやり、Robert A. Weinberg(この人には早いとこノーベル賞をとってほしい。永田氏の本にも書いてあるように、実はがん遺伝子の発見に対してはまだノーベル賞が与えられていないのだ)の「The Biology of Cancer」を読んだ。突然変異説の問題点も、エピジェネティクス説も、がん幹細胞説もみんな書いてあった。だが、私の頭には永田氏の本のように「本命、対抗、穴馬状態。発癌メカニズム研究の現状は混沌としている」とはinputされなかったのだ。うーん、どうしてだろう。細部まで説明した大冊なので、結局一番大事なメッセージが伝わらなかったのか。それともがん遺伝子レースの勝者であるWeinbergには、発癌メカニズム研究の歴史は違う形で見えているということか。
まあ、いいや。私は分子神経科学者なので、がんのfieldは混沌としているという方が気分がいい。そちらにしておこう。何しろ脳科学は生物学において混沌の代名詞として通用しているので、たまには「がんのfieldも大概じゃないですか」と言えるし。