エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

スペイン旅行編(1日め) 組長旅立つ

組長旅立つ。アエロフロート便でまずモスクワ入りである。たぶん今頃はロシア領空に入ったあたりだ。

昨夜は、まずせんべいと紅ショウガをバックパックから出し、行先の最高気温が23度くらいだということに
気づいてTシャツを出し、電子辞書をだし、と細かい削減に励んで、何とか10キロまで減量した。
それでも家内の話では、「重い。」と言ってゲートをくぐって行ってしまったそうである。がんばれ。

 スペイン旅行編(−1日め) 目標は体重の1/10

現在のバックパックと手荷物2つの総重量は11 kg。目標は体重の1/10なので、体重が110 kgならばいいのだが、残念ながらそんなことはないので、大変困ったことになっている。いろいろ考えて削っているのだが、だめらしい。おそらく時間ぎれで出発になる見通しだ。困ったことである。

寝袋が大きさ的にはバックパックの半分強を占めるが、重さは大したことがないのでこれを置いていってもしかたがない。

組長はこの点はすでにあきらめモードになっているようで、今一番気にしているのはアエロフロートでどんな映画をやっているかと
いうことである。大したものである。ネタでロシア映画を見て感想を教えてくれるように依頼中である。

組長スペイン旅行編 目途が立つ

この24時間での旅行の準備は以下の2つ。

何しろ急な出立なので、本人のカードを作っていなかったがカードは必要と書いてある。
いろいろ調べてセゾン系のNEO MONEYというカード(の海外専用版)であればいきなり作れて送金もできるということを見つけて
即発行を依頼して、今日カードに振り込んでくる。もちろん手数料はとられるがそれは仕方がないと割り切る。

もうひとつは国際学生証というのがあると何かあったとき便利らしいので作ろうと思ったが
意外と即日発行をしてくれない。大学生協の渋谷店だと10分もあれば発行してくれるというので
明日行って作ってくることになった。

トレッキングシューズもかなり足になじんできたと本人が言っている。

組長スペイン旅行編 旅程決まる

このスペイン旅行は某ブログで「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み、食べ、歩く800kmの旅」(小野美由紀著)の解説記事を目にしたところからはじまった。近くの書店で探したが品切れで結局アマゾンさんに頼んで昨日到着した。家内、私、娘と順に読んで感想は「歩かねば!」ということだった。目的地まで110kmのサリアから300kmのレオンに出発点を変更した。

6日にマドリッド国際空港に飛行機が着くのが11時。そこから都市鉄道を乗り継いでマドリッドのメインターミナルまで移動。そこから徒歩またはタクシーで南バスターミナルまで移動してバスに乗る。4.5-5.5時間でレオンに着くらしいのですでに夕方のはずだ。クレデンシャルを教会かバルでもらって宿を探して(ハイシーズンなので宿があるか?)、ようやく一日が終わる(はずだ)。

ようやく大体ものがそろったので、バックパックにものに詰めてみる。当たり前だがいっぱいでものがこぼれる。土曜日までに何度か練習して詰められるようになるのが当面の課題。もしもの送金の手筈も見つかって、だいぶセーフティーネットも整備された。最大にして最後の問題は「言葉」だ。NHK BSでスペイン ビルバオめぐりをやっていたので3人で見たが、「わからない」「オラしか聞き取れない」「まずいかも」。これは処方箋がないので、娘の笑顔と度胸に期待するしかない。

成田発まで残り5日

マドリッドにお昼前についてバスでサリアまで移動してそこから巡礼をはじめることにした。
1000円ちょっとの寝袋をネットで注文。たぶんそのまま置いて帰るか誰かにあげる。

強盗よけに何かキリスト教的なものを身に着けておいた方がいいだろうと言っていたが
巡礼許可書をもらいにいったら巡礼の印の貝殻もくれるらしいのでそれでいいだろうということになる。

帰国日の前の一日だけマドリッドの安宿を予約。あとは何がある?

番外編 組長スペインを行く

大学生の娘が、後期授業のはじまりが9/29なのでこの機会に自動二輪の免許がとりたいと言ってきた。そんな時間があるのなら海外に行って来ればいいのにと家内と言っていたところ、たまたまあるブログで、世界遺産にもなっているスペイン巡礼が目に留まった。大西洋岸にあるサンチャゴ・ディアスポーラを目指す巡礼路で、お遍路さんのようなものらしい。巡礼許可書をとれば一泊500円でそれなりの施設に泊まれるので、うまくすれば20日間で宿泊費1万円も可能である。

家内が打上げ中の娘にメールをした。30分ほどのラインでのやりとりの結果、「一人でも行く」というメールが来たのが一昨日のことである。

昨日は日程を考えて航空券をとった。9月は5連休があるので設定が難しい。結局9/5発-9/21帰国のアエロフロート便にした。これでも10万円強。破格に安いはずなのだが、一日前に検索したらほぼ同じ日程で7万4千円というのがあったので随分高いという気がしてしまった。午後はスポーツ用品店に行ってバッグパックとトレッキングシューズをセットで買う。これがほぼ3万円。娘は必要なもののリストアップをすませた。あとは5日の出発までトレッキングシューズでできるだけ歩き回って足になじませる必要がある。


昨日の夜、家内が遅くまでガイドブックを読んで、空港のあるマドリッドからサリアまでバスで移動して、そこから歩き始めることに決めた。サリアで巡礼許可書をとるが、巡礼許可書をとるためには100キロを歩くことが条件になる。いろいろやることはあるのだが、明日は娘は大学で実習の復習があるので、その課題作成で大変。しかもこんなことは考えていなかったので9/3には渋谷までバレエを見に行くことになっている。いい度胸である。

錨の役割を果たしたい

スポーツクラブへの行き帰りの道にさるすべりの赤い花が咲いている。今日はそろそろ散り始めで赤い小山が続いている。


サテル&リリエンフェルドの「その脳科学にご用心」を読む。

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか


後期の大学院の生命倫理の授業で脳神経倫理という名前のコマを担当している。これでたぶん5回目だ。
対象としている学生にはほとんど認知神経科学の知識がないので、そのあたりのことをひととおり説明した上で
脳神経倫理の話に入るという組み立てで5回やってみているが、講義の後のレポートを見るとfMRIの高度画像解析の
データでいろいろ推測できるという話に強い印象を受けるあまりに間違った刷り込みをしているのではないかと思ってしまう。

今年はそのあたりのバランスをとりたいと、このサテル&リリエンフェルドを読んでみた。
著者たちは、この脳画像法・ニューロマーケティング・神経法学の力強いうねりにさらわれないように
錨の役割を果たしたいというのが執筆動機だと書いている。


たとえば脳画像法の鮮やかな絵は非常に説得的だが、データ処理が不適切だととんでもないことになるのはほかの実験手法と何も変わらない。たとえばこういうこと。

「ヴァルの批判は多くの点で専門的だが、要点は簡単に理解できる。統計的に有意の関連性を探して膨大な数のデータを調べてから、見つかった関連性だけをさらに分析すると、何か「有効なもの」が出てくるのは、ほぼ請け合いであるということだ。この誤りを避けるためには、二度目の分析は最初の分析とは完全に独立したものでなければならない。この誤りは「循環分析問題」や「非独立問題」、もっとくだけた言い方では、「double dipping」など、さまざまな呼び名で知られている」


また、今の脳画像法全盛の時代は、かなりの意味で政治的産物であることが説明されている。確かに1990年代半ば以降のアメリカでの薬物中毒に関する研究の隆盛や(アメリカの雑誌での)報道のされ方は今思うと不自然だったかもしれない。

精神科医のジェローム・ジャッフェは大統領の薬物対策の顧問をはじめた務めた人物で、「脳の疾患」モデルの採用は戦術上の勝利であり、同時に科学の敗北でもあると見る」


一番大事なのは、「脳よりも”心”」だというのがこの二人の著者の結論で、私も講義のためにいろいろ考えてきてかなり同意できる。一方で、それを理系の学生にうまく伝える言葉がなかなか見つからないのも事実なので困ってしまう。今年も悪戦苦闘しよう。

「もしほとんどの人が自分も他者も自由意思を持っていると考えたらどうなるだろうか?いよいよ、私たちは問題の核心にたどり着いた。すなわち、人間が物質的世界に行きながら、なお道徳的責任を負うことは可能かという問題は、実証不可能なのだ。というのも、科学的な問題ではないからだ。これは概念的・道徳的難問であり、古代から思想家を悩ませ、いまだ解決をみていない。だが安心してほしい。私たちの目的はここでその難問を解くことではない。実際のところこの問題を解くことは不可能だろう。私たちがここで明確にしたいのは、脳科学もまたこの問題を解決していないという点だ。
 たとえば、受刑者をより効果的に更生させたいのなら、新たな治療法に関するデータは不可欠だ。この点については、脳科学は指針を示せるかもしれない。だが、道徳的理由から応報の実践をやめるべきか否かは、脳科学を含め、科学がこたえられる問題ではない。ところが実際に歴史を振り返ると、生物学を用いて社会変革を目指すという、不毛で、ときに残忍な試みの例は引きも切らない。昔も今も、科学だけに基づいて倫理体系を構築できると考えるのは重大な誤りだ。この「道徳」と「実状」の混乱は、哲学では「自然主義的誤謬」と呼ばれる」