エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」

朝、池の周りの木々と青空を見上げると風が流れるような気がする。働き始めたばかりの上の子に送る写真を撮る。

 

佐々木 中の「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」を読む。

 

 

「よく『未来への責任』と言うけど、これは『過去への責任』だと思う。過去から与えられたものを、ひとたび受け取ってしまった。それはあまりにも重くて、しかも血まみれなんです。けれども宝なんだ。そこで目を背けて目先の利益に拘泥するか、3万5千人の死を無駄にしないように動くかかどうか。それはわれわれの双肩にかかっている」

生存権を得るために3万5千人も殺されなければならなかったというのは、われわれ人類にとって恥辱です。だが、これを守れなくてどんどん死者を増やしていったら、ますます恥辱が募るだけでしょう」

 

「ルターははっきりとこう語っています。『私は聖書の言葉から遠ざかってしまうくらいなら、ドイツ語が傷つけられることのほうがむしろ好ましかった』。ルターは、母の舌(母語)を傷つけることを選んだ。---話し言葉に近い方言の語彙を多用すると同時に、その方言を洗練させ、共通語とする作業を行っている。そのために敢えて造語もしている。そのような努力をしつつ、民衆の言葉でイエス・キリストが、われわれの訛りでイエス・キリストが語りかけてくるという、驚くべき本と言語を『製造』したわけですね。ここに後世に巨大な精華を残すドイツ語が成立する」

「いいですか。講演の冒頭に述べたとおり。外国語はなかなか読めないし、その翻訳は読みずらいと皆いうわけです。でもね、あななたちに日本語が読めますか。日本語がしゃべれますか。日本語が書けますか。そんなことが本当に可能なのか。そうカフカヘルダーリンは言うんです。これが本当にものを考えるということです。本当の文学者が考えることです。言葉と戦っている人間が考えることです」

「でも、それでも母語が読めてしまうし、書けてしまうという、この驚きがある。ヘルダーリンカフカのような人たちが狂気を賭けた、この驚嘆すべき場所が存在する。何処に。本に。」

坂口安吾ー人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ」

「借り物だって構いやしない。他者がもっているものがわれわれの実生活に本当に合うものかもしれないではないか。そんなくだらない面子は捨ててしまえばいい、とね。他者の文化に晒され、故郷を見失うという苦難のうちにおいてのみ、安吾は『日本文化』を見ている」

 

震災直後の大阪での催しの最後の講演で。

PTSDにおいて、フラッシュバックしてくる映像というものはまず『止まっている』ように見えるわけです。静止、あるいはほぼ静止していて、なおかつ異常に鮮明である」

これは脳神経科学の枠組みで説明できるような気がする。映像記憶は通常は文脈で記憶されるので、時間の流れやその時の気持ちのようなタグ付けがされている。連合記憶でもある。ここでPTSDはそうしたタグとは無縁にいきなり立ち上がる。唯一似ているとすれば、アスペルガーの方の写真記憶というものだろうか。これは分子ではなく、回路やシステムの問題だろう。

 

「だが、かすかな希望があるとすれば―臨床的に証明されている希望があるとすれば、トラウマを負っていると自分で気づくことができた人は、他者のトラウマにきわめて寛大になるということです。--(一方で)厄介なことがあって、戦争や災害のトラウマというのは、強く言えば『遺伝』するんですね。中井久夫が不意に指摘していて驚いたことがあります。つまり、アドルフ・ヒトラー第一次世界大戦に行って、毒ガスで喉をやられてあの声になったんですね。中井氏は、ヒトラーは戦争神経症者ではないかというのです」

チャーチルが遺伝的背景の強いbipolarであったというのはほぼ確実であり、そのことは彼の大きさをいささかも傷つけない。他方で、ヒトラーが戦争神経症者であるとするならば、第1次世界大戦が個人をとおして第2次世界大戦を招いたという歴史と個人の絡む皮肉が浮き上がるのではないか。やはり心理歴史学はどこまで行っても無理なのか。

 

「ヴェールとその裂け目から成立している『真理の体制』、真理のトリックを静かに揺るがすものとしての絶対的なイメージがある。外傷的であり、なおかつまた証言でもあるイメージ、つまりその表面で過去と現在と未来が攪乱され、錯綜する時間藝術としてのイメージが存在する。ただ虐げられて苦しめられているだけではないイメージ―。それは『疵』として置かれ、未来に投げられる。イメージは疵であり、そうでなくてはならない。絶対に存在しない『静止画』は、しかしその時には実在しないことによって主体を作り出し、結ぶ。そうした『疵』として来るべき時に託されなければならない。イメージは疵である。それは残留する」

この文章に私は村上春樹の長い影を見る。壁のむこうで大きな輪をまわす女のかげ。

 

「われわれは傷つき、じわじわと疲労している。今度の震災で明らかになったのは、われわれはじり貧だということです。少しずつ疲れているということです。何かしら穴が開いてしまって、力が抜けている。貧困も格差も自殺も、時代の閉塞は全く解決されないまま、このような状況になってしまった」

「なんのために。  贖わなければならないわれわれの恥辱を、我々自身のこの手で贖うためです。屈辱でなく恥辱を。この人間の生き延びる術たる藝術において、どんな恥辱があっても、われわれの藝術は野蛮にも屑にもならない。その恥辱こそが、われらの藝術の変革を政治的革命にするのです」

「私は嫌ですー決して腰抜けにはならないということ、です。みなさんは今日、この『腰抜け』というディスを、新しい批判の言葉を持って帰ってください。どいつもこいつも腰抜けだらけさ。子供にも、腰抜けにもなりたくはないんだ。『再軍備やむなし』とかそういうことをいう奴が腰抜けなんです。『原発やむなし』とかいまだに言ってる奴は腰抜けなんだよ。弱虫なんだ」

 

「無限者である神は自分の姿を知ってはいけない」

村上春樹の「騎士団長殺し」において、リンボを流れる川を渡してくれる川守の顔を主人公は見ることができない(渦がまいている?)。この意味がどうも不明瞭だったが、彼は神(半神)だったのだと考えると腑に落ちる。

 

内田樹佐々木中がいる間は、そう簡単に言論が封殺される時代はこないだろう。私たちエンジニアはその間に次の社会を可能にするフレームワークを作ることを責務と感じていればいい。