エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

書き手としての「暗いトンネル」

昨日、紀伊国屋に行って村上春樹の新刊を買って読んだ。十分楽しく読んだが、感想を書けるほど頭が整理できていないので、川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」について書いてみる。

すべて真夜中の恋人たち

すべて真夜中の恋人たち


この作品は最近の女流作家の恋愛小説という分類でほぼ説明できるのだろうけれども、「校閲」という仕事をフリーランスでやっている女性の日常が、読んでいるうちに不思議なリアリティを持って心に積もってくる。なので、3分の2くらいを読んだ時に出てくる校閲者どうしの会話も、変なのだが十分理解できる。

本が手元にないので記憶に頼るが、「言葉は全て外からインプットされたものなので、自分が語ろうとするどんな表現も既にどこかで言われたことのあることの繰り返しのような気がする」というせりふだった。これをどういう文脈で理解するかは人によって違うと思うが、私は「実作者になろうと思っている人(作家個人)が作家を目指す過程で、ぬけなければいけなかった暗いトンネルのことを言っているのだろう」と感じた。

私も同じようなことを試みて、同じようなところで行き詰ったことがある。ところが同時期に研究論文を書いていたので、「自分の言葉を探す」のではなく、「表現したいこと(実験結果とその解釈、自分のpicture)をできあいの言葉でどうやって人に(レフリーに)伝えるか」というところに集中していって、「自分の言葉を探さねば」という強迫観念からひとまず気持ちは離れてしまった。英語で実用に堪える文章を書くにはそうするしかなかった。


母国語ならなかなかそういう割り切りはできない(時間がかかる)だろうと思うし、出口も人それぞれだと思う。川上未映子はこの作品のもうひとつのモチーフとして、「そういう気持ち」が書きたくて、作品の後半3分の1は恋愛の山でもあるのだが、書き手としての「暗いトンネル」を抜ける物語としても読める。なので、この作品のエンディングは、主人公の(作者の)「何かが書ける」というしんとした自覚を漂わせて終わっているように感じた。そういう終わり方は気持ちが残って悪いものではなかった。