エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

数学者の哲学、哲学者の数学

昨日あたりから花粉が飛んでいるのだろうか、のどや鼻が何だか熱っぽい。いつものことだが桜が咲くまでの我慢の季節だ。


砂田、長岡、野家の「数学者の哲学、哲学者の数学」を読む。

数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索

数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索


この本の本筋から離れるのだろうが、個人的にはたと膝を打ったのはここのところ。ゼノンのパラドックスはやはり気になるので、数学や論理学の本でこれが出てくると注意して読んで、頭では納得していたが、もうひとつしっくり来なかった。個々を読むとその理由は明確で、可能無限にこだわって極限をとるときに、頭の中で「作業」することをイメージしていたのがひっかかる理由だった。気分としては、これでようやくゼノンのパラドックスが見かけだけであることが腑に落ちた。

「(砂田)一般の人がゼノンのパラドックスを数学的に説明してもわかってくれないというのは、やっぱり無限ということが、可能的な無限しか理解しようがないからなのでしょうね。むしろ一般の人は可能無限こそが本当の無限だと思っていて、実無限は頭に入らないのでしょう。これは決して非難しているわけじゃありません。
(長岡)私は砂田さんが非難していると思ったことは一回もないんです。
(砂田)繰り返しとなりますが、やっぱり1=0.9999...を出さなければなりません。長岡さんはこれも可能無限という立場からは、ちゃんとしたものじゃないと思うわけですよね。
(長岡)少なくともε-δ論法で正当化できたとはならないと思います。
(砂田)これも繰り返しですが、ε-δ論法は、そもそも実無限の立場で正当化されるものです。普通、数列というとa1, a2,...って数えていくようだけれども、実は写像ですからね。自然数の集合から、実数への写像ですから、完全に実無限なんです。実無限の世界だから任意のεに対してあるδって書くんです。可能態の無限に拘る長岡さんが認めないのは当然だと思います。これに関連して、ニュートンの流率法における無限小概念を批判したバークリーを思い出します。実は等式1=0.9999...を一般の人たちが理解しづらいのは、バークリーの批判を引きずっていて、極限を考えるときの無限の『作業』にこだわっているからです。数学には、実時間と関連する『作業』は必要がない、というより、現実の『作業』を数学の中に持ち込んではならないのです」


数学の哲学の意義というのがこの本の本題で、簡単に言えばこういうことらしい。

「(長岡)私は、数学の哲学というのは、なぜに大切かというと、やはり素朴経験論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないと思うからなんですね。われわれは常にその素朴経験論と素朴唯物論の、いわば攻撃にさらされているわけですね。ちょっと油断すると、そこに攻め込まれる。それは非常に強い攻撃で、ある意味で誘惑的であるかもしれません」

「(長岡)冒頭の話と結びつければ、結局、言語世界の豊かさが、思索がいかに深くなり、幅広くなることのキーなのだと思います。数学も結局のところ、−専門的な研究はまた別ですけれども―教育に関して言えば、数学後の言語教育だと思うんです。いかに数学の言葉を豊にしてやるか。それは自然科学の研究者の卵達には自然科学研究の言語、人文科学に行く人たちにとっても、それはイデアの世界というのを語る言語、それがあるということを伝えるだけでも、かなり重要なメッセージだと思います」

でもって、その奥には、いうところの最終兵器があり、その代表格がε-δ論法であり、ε-δ論法が正当化できるのは実無限の立場に立つときだけだ。ということになる。大学1年でε-δ論法を習っても、その前に可能無限も実無限も知らないのだから、単なる念仏だったわけだ。困ったものだ。

「(長岡)砂田さんがしきりにおっしゃっていた『数学者たちが共有している理解』というのは、決して哲学者たちが心理主義的と断定するような理解ではないんですよね。でも数学者たちは表現できないから、感覚的、直観的と言っているんです。でも実は明確に理解しているんだと思います。明確に理解しているけれど、自分がどれほど明確に理解してるかを明確な言葉で語れないんです。繰り返し出てきたアウグスティヌスではありませんが、『言われなければ明確に分かっているのに、問われると分からなくなる』。この『問われると分からなくなる』理解は、正しい理解でないのかというと、そんなことはありません。実はそこに、人間の深い理解の秘密が隠されていると思うんです。現代数学は、そこを明確な言葉に置き換えるすべを心得ています。また数学者はその武器を持っています。その武器は、いざとなったら使うぞっていうものです。最終兵器みたいなもんですよね。
(砂田)まさにそうです。最終兵器は記号列で表す形式言語による数学ですが、他に数学言語には日常言語、中間言語があり、最終兵器は講演でも論文でも使いません。
(長岡)でも本当のことを言うと、その向きは使わないで、みんなで理解を共有できるんです。それは主観的、直観的というのではなくて、論理的にはいわく言い難いものだんですが、でも明確なのはわかっている」

「(野家)最終兵器というのは、ε-δ論法のような理詰めの論証法ですね。有無を言わせないというか。
(長岡)どうしても納得しないんだったら、最後はもうバキッとやるぞと。現代数学は論理的に完璧に表現する概念装置、理論装置を獲得しました。集合論と論理学によって、いつでも戦うということです。でも倫理学にしても、集合論にしても、最終兵器として完璧かというと、そうでないことはもう証明されています。とりあえずこれを疑ったり、反旗を翻す人はいないという、それがε-δ論法に代表される現代数学の方法です」


派生してもうひとつ、痛く刺さる言葉があった。

「(長岡)『分かる』と『見る』とは同じだという意見がありますね。あれは完全に誤解で、やっぱり先ほどの例で言えば、素朴唯物論、素朴経験論のレベルの認識論だと思うんです」

イメージング屋として、「百聞は一見にしかず」とか簡単に口にしてしまうが、きちんと考えた上で、TPOをわきまえないといけないと自戒する。