エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

趣味で相対論

下の子の6歳の誕生日。何か記憶に残る事をということで、家内の提案で関西サイクルセンターに一泊旅行にでかける。アトラクションとプールとBBQ。プールで通算7時間も子供を見ていたので、すっかり日焼けする。それにしても暑かった。


広江克彦の第2弾・「趣味で相対論」を読む。

趣味で相対論

趣味で相対論

良書である。専門家(専門家志望の学生)向けでもなく、素人むけでもない物理書を書くというのは勇気がいったと思うが、ホームページでの模索をもとにしっかりした、かゆいところに手が届く本に仕上がっている。個人的には一般相対論をきちんと理解する事は諦めかけていたので、こういう本でその年来の宿願をはたせて、それだけでもポイントが高い。これは残っていく本だと思う。

アインシュタインはどの慣性系も相対的であって、平等だと考えた。「物理法則はどの慣性系でも同じ形でなければならない」というのがかれの主張の中心であり、「相対性原理」とはこのことである。だから、全ての法則をローレンツ変換に対して不変な形で表す事は相対論の目的のひとつであるのだ」
「−−、生命とは何か、知性とは何か、自由意志はあるのか、我々の意識とは単なる粒子の衝突の結果なのだろうかと、取りとめもなく思考が膨らみすぎてしまう。粒子たちは衝突が起きるその瞬間までは互いに無関係であるとすると、どの粒子とどの粒子が衝突したという事実のみが意味を持つのであろう。どこで、とか、いつ、というのは関係ない。そういうものは粒子の衝突パターンに過ぎない知性が勝手に作り出す概念だ。そんな衝突記録の蓄積に過ぎないものが時間や空間の正体なのだろうか。知性とは、宇宙とは、そんな動きのない、どこかにしまわれたデータベースにすぎないものだろうか。我々は今、この瞬間も生きていて考えているというのに」
「光が重力に影響を与えるからといって、そのエネルギーをわざわざ「質量」などという古い概念に換算してニュートン力学の考え方を適用しようとしても、いずれ現実と合わないところが出てくるのである。質量という概念は本質ではなかったのだ。
 では一般相対論でいうところの質量とは何かと言えば、単に物体が静止しているときのエネルギーを表すだけの数値に過ぎないことになる。つまり重力だけでなく、質量でさえただの錯覚に過ぎないのだ」
「こうして「測地線の方程式」が「ニュートン運動方程式」の拡張版になっているということを示す事ができた。そして計量テンソルはポテンシャルと非常に関係のある量なのだと分かった。ニュートン力学ではたった一つの重力ポテンシャルを使うだけで済んでいたが、一般相対論では10個の独立な計量テンソルが重力ポテンシャルとして振舞う事になる。10個なければ重力場の複雑な形状を表現することができないということなのだろう」
「まず一般相対性理論の基本的な理念は「一般相対性原理」と呼ばれるものであり、これは「慣性系に限らず、あらゆる座標系は同等である」というものである。つまり物理法則はあらゆる座標変換に対して形式が変わらない形で表されるべきだと主張している。これは式の両辺をテンソルで表してやれば実現できる。
 一般相対論のもう一つの柱は「等価原理」と呼ばれるものであるが、これは「座標変換をうまく選べば、ある一点の近くでは無重力だとみなせて、特殊相対論が成り立っている」というものである。これについては、リーマン幾何学を使う事でこの思想が実現している。
 このように一般相対論ではもはや「光の速さが一定」であることは
重要視されていない。無重力だと見なせる特別な座標系を選んだ時にその地点で特殊相対論が実現していればそれでいいのである。あとは式の両辺がテンソルであることさえ徹底すれば原理に忠実でいられるということだ」