エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

祇園囃子と「無」の哲学

3回目の祇園祭。宵々々々山に行く。祇園囃子を生で聞くと夏の訪れを感じる。今年は人出がまだ少ないので、長刀鉾の粽を買えた。そのあと子供につきあって細い通りに入り、夜店をひやかす。子供は大喜びである。こうしていると、自分の子供のころの祭りのわくわくする気持ちが戻ってくるのがわかる。

田中久文「日本の「哲学」を読み解く」

副題は、「無」の時代をいきぬくために、となっており、西田幾多郎和辻哲郎九鬼周造三木清がとりあげられている。

無は私にはわからない。無心はまだわかるような気がする。何かしら雄大な景色の前に立ち、天地有情を想うとき、心は無心に近づいていると感じる。それと同じ感覚では無はわからない。まして、物理学の余計な殻をたくさんかぶってしまうと、無と有の境界はますます怪しくなる。

そういう興味で本書を読んだ。

やはり、みな無の取り扱いに苦慮しているのがわかった。西田幾多郎は「無」が形而上学的な固定概念となってしまうことを脱却しきれず、和辻哲郎九鬼周造は、運動の中で「無」を捉えようと試みたが、徹底を欠き、いつのまにか日本的情緒に絡めとられる。三木清は虚無にまでいきつくが、宗教との狭間でおしつぶされてしまう。

「無」とは太陽のようなもので、直視すべきものではないのかもしれない。「無心」の方がずっと親しい。