エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

京都大学という牧場

奈良先端大のグループとの研究打ち合わせ。前半は実のある話し合いができたが、後半で、投稿中の論文の改訂について院生のT君の話になって雲行きがおかしくなってきた。
気がついたらつい説教口調になっていて、後味が悪かった。他の研究室の院生の研究態度に当の指導教員の前でクレームをつけるのは内政干渉である。少なくとも品があるとはいえない。
こちらがまじめに議論している時に、受け流されるような口をきかれるとかっとするのは私の悪い癖である。でも、こういうのもたぶんアカハラに分類されてしまうだろう。自戒すべし。

鷲田清一「京都の平熱」

京都の平熱  哲学者の都市案内

京都の平熱 哲学者の都市案内

を読む。

市バスの206番は、京都駅と北大路ターミナルをつないで、京都の中央部をぐるりと回る。祇園、京大、北大路、大徳寺島原。「京都の平熱」は阪大の学長でもある哲学者が、自分が生まれ育った京都を市バスの206番に沿ってぐるりと語った話である。その大方は昔話なのだが。出勤に206番を使っているので、その雰囲気は肌でわかる。大変に面白かった。

「熟した街にはかならずだれもが知る奇人がいる。
奇人の条件とは、効用とか意義といった「合理」とは無縁の行動をとるということ。損とわかっていることばかりしたり、意味のないことに全財産を注ぎ込んだり、なんの得にもならないことで身上をつぶしたり、、、というふうに、人生の習いから確実に外れているけれど、人生、確実に一本筋が通っているという御仁のことである。
「あほやなあ」とあきれながらも、かれらを変人を超えて奇人であるとひとが納得するのは、そのひとたちが通す筋にどこか憧れるからだろう。この筋を、いけるところまでとことんたどっていったらどういうことになるかを、そのひとたちが見える形で示してくれるからだろう。
言ってみればそれは、並の人生に向けれられる<外>からの視線である。人生をしっかり棒に振ることで、逆に市井のひとたちに、おまえたちが後生大事に守っている人生などほんとうに棒に振るに値するほどのものなのか、と問いただしているのである。奇人とは、変人とちがって、あっちにまで行ってしまったひとたちなのである」

「「頭がいい」でも「できる」でもなく、「おもろい」。これが桑原武夫先生の最上級のほめ言葉だったというのだ。
「おもろい」。これは、これまでの通説やそれらが依拠している基盤そのものを揺るがし、くつがえす徴候をみてとったときに発せられる言葉だ。「頭がいい」や「できる」はいま流通している基準の中で測られた評価でしかない。とんでもないことを言い出すやつを放逐したり、飼い慣らしたりするのではなく、野放しのままにしてくれる場所、それがここにあるとおもった」

確かに京都や京大にはそういうところがある。日常生活ではいろいろと制約の多いところがあり、家内と憤慨することも多いが、最近、ひそかに京都や京大のそういう底の深さ、おそろしさと裏腹の面白さが感じ取れるようになってきたのではないかと思うことがある。

これで子供が地の人と結婚でもしたら、ますます足が抜けなくなりそうである。