エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

時間はどこで生まれるのか

日曜の夜、下の子を連れて近くの疎水に蛍を見にいった。最初行った橋の片側では見つからなかったので「こりゃまだ早いのかも」とあきらめそうになったが、人が結構出ていたので、いるはずだと思い直し、橋の反対側を歩いていくと、いたいた。ふわりと飛んでいる。木に止まっている。「去年と同じだねぇ」と子供が言う。そこにいた女の人が本通りの向こうにはたくさんいたと教えてくれたので自転車を飛ばす。いたいた。本当にたくさんいる。「13匹いる」と子供がいう。蛍を見ると、いつも初めて蛍を見た田舎の川を思い出す。過去の記憶。時間の向こう側。

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

時間はやはり不思議なものである。不可逆なところが何とも不思議だ。その割りに時間を正面から研究する人は少ないらしい。本も少ない。なのでこの本はたまたま生協でみつけて即購入した。

「原子一個といったミクロな存在の世界においては、時間そのものが実在ではない(その他の物理量もまた実在ではない)。そこでは因果律さえ成立しない」まあ確かに量子力学の基礎を掘っていくとそんな羽目になる。橋元淳一郎は、マクロな世界を記述するときに、時間が立ち現れるという(「立ち現れる」という
表現は大森荘蔵由来か?)。そこからエントロピーの議論を経て意外なところに読者は連れ去られる。

「「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を、どうしようもない変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由を持っている。すなわち、この自由こそが未来そのものである。このようにして、主観的時間の流れが創造され、改変できない過去と自由に選択できる未来という時間性もまた生じたのである。」

マグダガードという哲学者が言い出したC系列(時間とは関係のない単なる配列のことだそうな)を引用して、橋元淳一郎はこういう。
「実在とは何かは、われわれには不明のままである。しかし、われわれの理性(物理学)は、思考と実験の繰り返しの中から、この宇宙がミクロな様相はもちろん、マクロな様相においても、相対論的C系列の構造をもつことを見出してきた。C系列は一覧表であり、もっと比喩的にいえば一枚の絵である。宇宙は、ただそのように存在するだけである。」

気になるのはここのところだ。一枚の絵とはつまりは変分原理の支配する世界のことであろうか。私は、どうも根本のところで変分原理が腑に落ちない物理学徒落第生だが(光は自分がどう曲がるべきかを予め知っていると主張する変分原理には何だかキモチワルイものがある)、上のように考えると、変分原理は私の気持ちとは関係なく正しくて、人間(私を含む)は進化により作られたゆえに、時間というイリュージョンで世界を見るように作られていて、それゆえに変分原理をキモチワルイと感じるのではないか、という気もしてくる。

たぶんその辺りのあやは、人間の意識の不思議とつながっているような気がする。