エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

萩の花と新リア王

この連休は萩の花が見ごろである。うちの狭小な庭も今はそのおかげで寂びた華やかさがある。


高村薫の「新リア王」を読む。

新リア王 上

新リア王 上

新リア王 下

新リア王 下

高村薫はかなり評価している作家だが、立ち読みした「晴子情歌」の印象がぱっとしなかったので、福澤ものは読まずにすませてきた。のだが、新作の「太陽を曳く馬」は合田雄一郎が出てくる「推理小説」だと聞いてあっさり方針転換して、「晴子情歌」→「新リア王」と読む進めてきたところだ。


「新リア王」では福澤王国を青森に築き上げてきた政治家・榮とその側腹の子にして禅坊主の彰之の4日間の対話が描かれる。それは田中派からの創政会の旗揚げを背景にした政治の役割の変質についての議論であったり、禅の修業生活の生臭い側面の告白であったりする。一貫しているのは、高村作品には常にそれがある細密描写である。そしていかにも高村作品らしく、細密描写はしばしば異様な迫力を生むことはあるが、一度も何かを感傷的に歌い上げることはない。


「それは私にとって、まったく目覚めたといったものではなく、むしろ人類が生死への執着を離れ難い生き物であることの、これ以上はない強烈な証だったと申しましょうか。人間の生死を救わんと願いに願った行者たちの、数千年分の妄念が降り積もって出来上がった仏道の闇がこの目の前に口を開けていたというか。開かれていたそれは般若の静けさでも慈悲の安らかさでもない、私にはただ昏すぎ深すぎて何も見えない、何も聞こえない暗黒のなかの暗黒でありました。明らめるべき生死の大道なるものが、そんな闇であるはずもないのに!おおかた、母を失おうとしていた30の男には、そんなことでも思わなければそれこそシャツのボタン一つかける手も動かない、まったくどういてよいのか分からない有様だったからか。あるいは、私という人間にはどこまでも世界に向かって開くような眼も耳もないということの証だったのか。しかしともかくそれを機に、私は某仏、某仏、某仏、の無限の音韻の泡をいましばらくこの身体に染みこませたいと思い、常光寺に入って以来18年目にして、やっと仏門の戸口にこの手をかけてみるに至ったわけでした」


「一方私もまあ、永田町に暮らしながら、やはり政治を政治たらしめているものについてしばしば考える。すなわち政治は何の前にその姿を現すのか、政治は何によって政治になるのかという存在論の問いを立てるのだが、因みに、人間の生活の諸条件とそれが作り出したシステムによって、政治というかたちは私の認識の中に現れ出てくる―すなわち存在するというのがその答えになる」

「それはもちろん高度に発達した政治経済の要請だったのだが、私たちは鉄とコンクリートと人間の知恵で世界を再生し再生しして廃墟をつくろい、地獄に蓋をすることを覚えたと言ってもいいだろう。そうして記憶は積み重ねられる代わりに上書きされ、<いま>は常に更新されて、あたかも終わりというものがないかのように誰も彼もが陽気に生きておるのだが、あらためて眺めてみればそこにあるのは何か。
一つは目指すべき未来があるような、ないような宙吊りであり、また一つは何かの終わりや始まりを試みに語ることで、あたかも次の世も手の内にあるようかのような幸福な錯覚の中で生きることであり、また一つは未来などというものを金輪際見ないということだろう。そして現在がこういう地平にあるのだとすれば、君たちは確かにもはや私の世代のようには未来を語れないのかもしれぬ。人間にはまだなすべきことがあり、従ってしかるべき未来があるというふうには語れないのかもしれぬ。しかしそうだとしても、私たちは廃墟と永遠におさらばして不滅の世界を手に入れたわけではなかろうし、時間が止まらない限り、依然過去も未来もあり、終わりもあるのだ。未来への眼差しをもたない人間にそれがどういうふうに見えるのかは知らぬが、一つの終わりが来たとき、必ず次の何かがあるという保証がどこにあるか。資本主義の行き着く果てが荒野にならないという保証はどこにあるか」

「今日の物価、今日の仕事を保証するにあたって、私たちの社会はこれでよいのかと自問するのが政治ではないのか?人間はなぜ政治を必要とするのだ?人間は、自分がどういう社会に住みたいかを考える生き物だから、政治を必要とするのではないのか?」


たぶん露出度から言って、現在の高村薫はその小説作品よりも、現代政治についての独特の角度からの批評で知られているのだろうが、正直に言うと、私には高村薫の政治的発言はある種の印象批評のようにしか聞こえず、強い印象を受けたことがないように思う。(嘆くべきものを嘆いているだけのものを一級の批評とは呼ばない)。それに比べると、この作品の最後の密度の濃さは素晴らしい。高村薫は一級の小説家であると改めて認識した。