エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

科学の世界と心の哲学

昨晩は10年ぶりに鳥取大学のO先生に会って、北白川の小料理屋で4時間くらい四方山話で過ごした。酒はビールと秋田の太平山。久しぶりに適量以上を飲んで、午前中は軽い二日酔い。

小林道夫の「科学の世界と心の哲学」を読む。

心は自然科学では完全には解きつくせないというのが著者の結論。デカルトの哲学に倣い、どのような卓越した神経科学者を想定しても、彼は自分の理論の妥当性をあえて疑ってみることができる、というのがポイント。その場合は、その懐疑に伴う意識は、その対象のほかならない理論体系からはみ出すことになり、それによっては説明できないことになる、という筋書きである。

面白かったのは、心身二元論の卸元のデカルトが、実は素朴な経験としての「心身合一」を唱えていたというくだりだった。

デカルトの究極の回答とは、精神と身体とのあいだの二元論とは独立に、それとはまったく異質な事態として、心身の直接的合一(「心身合一」)を認め、その合一自体は、「日常の生と交わりを行使することにとってのも知られる「原始的概念」であるというものである」
デカルトにおいては、知覚をはじめとする人間の活動について、科学的見地からの普遍的・因果的メカニズムの追求のスタンスと、日常生活における、いわば「素朴実在論」的なスタンスの違いがはっきりと意識され、それらが自覚的に使い分けられているのである」

この「心身合一」が、外見的に大森荘蔵の意識観=「天地有情」と似た形をとっていること、比較すると、大森荘蔵素朴実在論を徹底することで、自然科学(神経科学)の哲学的限界を見て取るところまで進んでいることが思い合わされる。大森荘蔵デカルトを意識していたのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20081116/1226805901