エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

社会システム

今日書かれるブログの8割は、東北大震災から7年がたったことについてどこかに書いてあるだろう。私の場合、2011.3.11は、たまたま学生室で打ち合わせをしていたので難を逃れたが、居室にあった天井まであるスチールの本棚が私の机に倒れていて、部屋に戻って唖然とした。すごい音がしたはずだが、まったく気がつかなかった。

 

菅原潤の「京都学派」を読む。

 

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

 

 

京都で4年を過ごしたにしては私には京都学派について特別な関心はない。むしろ知り合いがいたこともあって、人文研や梅棹忠夫さんたちの知的営為の方に関心が深い。たまたま手に取ったこの本について、少し何か考えてしまったのはこの箇所があったからだ。

 

その前に「京都学派」は文学部や京都在住の人にはぴんとこない言葉だと思うので、著者の記述を参考に簡単に。京大哲学科の創設以来、西田幾多郎田辺元により築かれ、京大四天王(西谷啓治高山岩男、三宅剛一、上山春平)により継承・拡張された哲学グループの総称。弁証法を基軸とした透徹した論理的思考、東洋的(ないしは日本的)思想への親和性、(当時における)現代思想の批判的摂取などを特徴とするそうだ。

 

読んでいて私の中で急ブレーキがかかったのは後半で著者が引用している鈴木成高の言葉だった。1952年の鈴木の著書から。

「近代兵器が持つ殺戮性にたいし、これを防止する手段は、道徳ではなくてただ対抗兵器あるのみであることを、戦争の歴史はわれわれに教える。原子兵器もまた、同じ歴史を繰り返すべきであろうか。さしあたってまず原子兵器の場合には、それに対抗するなんらの科学的手段がないということによって、問題が特異の性格を有する。実はそのことによって決定的にアクセンチュエートされている。しかしこのことは大きな問題であるのでなければならぬ。兵器を兵器によって防衛することができないということは、言葉を変えれば、戦争を戦争によって防衛することができなくなってきたともいえる。そのことはすなわち、戦争がまさに限界点に達したことを意味する。そしたかかる限界状況においては、さらに原爆以上の強力なる兵器の出現をまってこれに対抗するというごときことは、もはや完全に無意味であるといわなければならぬ。ここにいたってわれわれはいわればならぬ。原子力時代とは、まさに兵器に対抗するために兵器以外のものを必要とするにいたった時代である、と」

 

この鈴木の意見を著者は現代に発展的に投射してこう書いている。

「この来るべき倫理の具体的なイメージを鈴木は語っていないが、『産業革命』に比肩される『文化革命』を通じて誕生する新たな倫理は、おそらくはリアル・ポリティクスを踏まえたテクノロジーの規制という体裁を整えると予想される」

 

いくつかの理由で、私は鈴木成高の問題提起の正しさを信じてたいと思っているが、著者の主張には必ずしも賛同はできない(もちろん言いたいことはよくわかるが)。資本論を引き合いにだすまでもないが、事実上現代の社会は政治も科学テクノロジーも大きく経済に引きずられる形で動いている。それが歪みなのか社会の自然な発展なのかは別にしたとして、サバイブのために、少なくともその3つのバランスを取り直す社会システムの構築がもっとも必要とされているというのが私の個人的意見だ。その社会システムは最低限「社会的配分と個人の内面の自由」を両立するべきだろう。ある程度公平な社会的配分がないとシステムは予想より早く崩れ対応できないだろう。個人の内面の自由がなければそうした努力をする意味がないだろう。このテーマを私はル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」を読んだことで学び、何度も思い返してきた気がする。