エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

はじめて知る仏教

整体に行った帰りにわき道に入ると、刈った稲を干している田んぼがあった。この前通った時はまだ稲刈り前だったので、季節は着実に進んでいるわけだ。そろそろ来年の手帳や日記も売っているし。2008年もあと2月半だが、まだまだいろいろありそうだし、個人的にもまだいろいろやることがある。

白取春彦の「はじめて知る仏教」を読む。

はじめて知る仏教

はじめて知る仏教

「本来の仏教はあっさりとシンプルなものだったのに、長い間に学僧の手垢や宗教的な装飾がごてごてと付着して複雑難解になってしまったと思っている。
では、本来の仏教とは何か。
それは、「縁起」と「空」の体感的理解、そのうえでまっすぐに変哲もなく、ふつうに堂々とこの世を生きていくこと、これだけであろう」

「縁起」と「空」が仏教のキーワードだというのは、先月読んだ井筒俊彦の「意識と本質」にもあったことだ。ただ白取春彦はもっとはっきりと、そのことをわかっていたのは禅宗のごく一部だけで、それ以外の日本の仏教はすべて、仏教としてはまがいものだと断ずる。

仏教を知らずして日本は仏教国だなどと言ってきたのである。日本に本当の仏教の歴史はなかった。あったのは、外国のさまざまな古代宗教と日本の神道が混じりあった錯綜である」

宗教は知性の内に納まらないので難しい。理解することと触れることの差であろう。そこを白取春彦グレアム・グリーンに事寄せてこう表現する。

「信仰が篤いと評判の神父に、ある人が尋ねた。「どうすれば、あなたのようにそんなに深い信仰ができるのですか」すると、神父は答えた。「わたしは信仰しているのではないのだ、わたしは神に触れているのだよ」」

「人間から計算高い知性と悪い習慣の皮が剥けたとき、真人間の肌が現れてくる。ブッダの戒めはそれを促進するためのものである。
経典を低く響く通る声で誦することによって、皮が剥けるわけではない。現実の行いこそが自分を変えるのである。ブッダは「行いこそ、その人である」と教えている。仏教とは現実の行動なのである」