エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

支配的モナドの創発・閉鎖・不確実性

良い天気の日曜日。特にこともなく、一日ゆっくり過ごす。水遣りをしていたら沈丁花のつぼみがついているのに気がついた。


西川アサキの「魂と体、脳」を読む。

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)


mind-body problemを哲学として正面から扱った本だが、哲学用語をできる限り日常語でその都度定義していることと、モナドをエージェントと見なしたシミュレーションで話が進んでいくのであまり抵抗なく読めた。もちろん我流にしか読めてはいません。

mindを表面論理的に詰めていくとたやすく無限後退に陥るので、最初の一歩が大事になる。モナドは定義から入ってそれを避ける便法(本質かもしれないが)なわけだが、それをドゥルーズが「襞」でさらに掘り下げていたというのは全く頭から消えていた。西川アサキはその枠を使って、「中枢」となる「支配的モナド」をシミュレーションで出してきた上で、その上で不確実性を扱ってみせている。非常に技巧的な話だが、読み物としてはかなり面白い。


例えばこういう問いかけはどうだろう。

「だが、『不確実性』は、モナドの『どこに』あるのだろうか?(この本では「意識」は不確実性から生じるという立場が貫かれている)。実はそこにドゥルーズによるライプニッツ解釈のポイント、出来事概念の微妙な変更点がある」

「人が心身問題を気にしたり、自分の死を気にしたりするのは何故か?私見では、そのことと『主体のようなもの』が出現していく過程は切り離せない。またそれは『非有機的なもの=不確実性』がどう変形していくのかという物語でもある。だからこそ、『中枢化されていないもの』の例として、特に意味のない『たんなる出来事』の事例が必要だった。それは紐帯と有機的なものにとりこまれてしまう前にある「不確実さ」のかすかな例だ」


この本の話が急に屈折するのは、モナドのシミュレーションの中で、エージェントの「閉鎖」を実装しようとするあたりからだ。これはひとつのシステムの中で外部からの指示(例えばシステムで斉一的に適用できる閾値の指定)なしに「支配的モナド」を生成するための仕組みとして導入されており、そこからの「支配的モナド」の単一性も出てくるし、不確実性も出てくる。その意義は以下のような形でも表現されている。

「閉鎖モデルが主張するのは、そのような一見無秩序な世界にこそ、必ず『貨幣』や『中枢』のような、全体を統制し、『ほとんどグローバル』な価値尺度が出現するということだった。つまり、徹底的な(エージェントどうしの)議論は、唯一の貨幣とその交代を可能にする」


乱暴に言ってしまえば、この本では「現動化」が精神に対応し、「実在化」が身体に対応しているが、その関係は以下のように解釈される。

「閉鎖モデルでの中枢の創発は、唯一の中心を定めることで、「視点」と中枢内部で起きるシミュレーションの範囲を限定し続ける(現動化)。一方、中枢は必ず崩壊するが、それは、『他の萌芽的中枢たちを従え続ける=命令が抵抗に遭わない=自分の視点と矛盾する別の視点を排除=内的な共可能性を維持』できなくなるからだ。逆に言えば、共可能性を保つ限り、それは持続=時間的延長するし命令=空間的延長が可能になる(実在化)。そして、視点の唯一性が続く限り、一つの視点内に出来事とクオリアが実現され続ける、という描像が可能になる」

別の表現をするとこんな感じ。

「結局のところ、紐帯あるいは外的な支配をエコーしているモナド・従属によって内的に支配されているモナド、という相が『物質』であった。逆に支配するモナドは『精神』である。だから心身問題が『物質』と『精神』の『区別を決める問題』ならば、紐帯により様々なレベルで決まる支配関係が、その都度の『答え』となる。そしてそれは。構造でありながら、同時にある一回の個別的な出来事でもあった」


自己言及性から手品のように「意識」を出してこようとするパターンが、ペンローズ以降特に目に付くが、意識の源を「不確実性」に求めてそれなりにストーリーを作ってしまうのはかなりの腕力だと思う。ナイトやタレブに示唆を受けていることを文中で書いているが、鮮やかにそれを編集している。