エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

認知神経科学の枠組みで、意識における不確定性原理の相当物は発見できるだろうか

tnakamr.hatenablog.com

以下は、リー・スモーリンの「迷走する物理学」の一節。

 

「最近は、量子重力の研究をしている者はたいていが、因果性こそが根本だと−したがって、空間の概念が消えた水準でも意味をなすと−信じている。量子重力への取り組みで、これまで一番うまくいったものは、この3つの基本的な考えを組み合わせる。空間は創発するもので、離散的な記述の方が根本的で、この記述は根本的な形で因果性を含むということである」

 

世界が本質的に離散的であるのに、われわれのこころ(「意識」)にそれが連続的に見えるのはなぜか。

 

ここで、ファインマン量子力学に対する基本的な比喩を持ち出そう。

「机の上に私は手を置いてみる。当然のごとく、私の手は机に突っ込むことはなく、手は机の表面でとどまり、通り抜けることはない。しかし、素粒子論の素朴な仮定のみからすると、空間に離散する点どうしである机と私の手は相互に侵入しあっていいように思える。私はまず、それがそうならないのは確率的な話ではないことを生き物として知っている。(私の100年の生涯で1回起きることがある可能性はあるという類の話ではないという意味で)。なぜなら生物進化の歴史がそれを帰納的に証明しているから(Really?)。さて、しなしながら、私の量子力学に対する理解はその上に立って、私の直観を肯定する。その中心部に存在するのは、不確定性原理である。距離の不確定性と運動量の不確定性の積はごくごく微小なある量以下にはならない、というあれである。その後、ベルの不等式によって、その実在はさらに厳密に定められた。したがって、私の手は机に突っ込むことはなく、手は机の表面でとどまり、通り抜けることはない。(q.e.d.)」

 

これをわれわれのこころ(「意識」)に比喩的に拡張する(あるいはパラフレーズする)ことを試みてみよう。…。実はこれに対する答えが21世紀前半の神経科学の聖杯となるだろうと私は予想している。つまり、認知神経科学の枠組みで、意識における不確定性原理の相当物は発見できるか、あるいは構成できるか、という問いである。これは不可換性脳科学ということも可能であろうが、将来の拡張性を期待して、私はこれを非線型脳科学と呼ぶ方が好きだ。

 

ここに存在する対称性は数理科学に共通して見いだされる美しさ、つまりネータ定理そのものである。現在の数学はまだその内包と外延の完全な理解にまで到達していないと思われる。したがって、やはりもっとも難しい数学は離散の極みである整数論であるし、そうであるのは、離散的存在であるわれわれのこころがなぜ連続を実在と感じるのかという「存在そのものに内在する矛盾(より正確な言葉で言い直すと不完全性」に起因する。

あてにならない予想 -「心」の装置とその理論、および非線型性への見通し

情報理論は、クロード・シャノン@ベル研が空からつかみ出した。フロイトのアイデアは面白くもあり受け入れがたくもあるが、情報理論の視点から見ると、フロイトの唯一の誤りは、われわれの「心」の装置をエネルギー制御のシステムと考えたことにあるのだろうと考える(時代的には当たり前だが)。

むしろポイントはエントロピーではないか。あてにならない予想をすると、実在の大きさを持たない情報空間の質(または量?)を記述するエントロピーの制御がポイントだったと21世紀後半の認知神経科学者は語るだろう。こころとは、形をもった非実在であり、同時にそれが他者を理解するための不可欠なパーツだとすれば、「こころ」とは無形の実在としてはじめて記述できる何らかの存在/非存在であろう。(あるいは非物理的空間ー直感に反し、本来、空間とは非物理的なものであろうと思われる。例えば大森荘蔵が論じているようにーに無言のうちに浸透する)

 

非専門家の知識では、現時点で科学的という意味で論じるに足る「心の理論」は、IIT、ドゥアンヌの「グローバル・ニューロナル・ワークスペース」、拡張する身体理論の3つある。「心」の装置は基本的にはエントロピー制御であると考えることが可能であれば、どの理論が正解であるにせよ、議論の落ち着く先はほぼ見通せるような気がする。スティーブン・ホーキングが切り開いた「ブラックホールからエントロピーが失われる/外に出てくる」という理論がこの来るべき次世代の「心の理論」に何かを示唆すると面白い(時間の非存在という最近の物理学の流れからすると、さほど突飛な話ではない)。ここでも再び理論のフレームワーク非線型性(特異点という表現が当たっているか)が表に出てくる。本来の意味での心理物理学(過去に出てきたその祖先が基本的に線型であったのに対し、これはそもそもの骨組みが非線型になっている)の出番だと予測される。

物理学者がウォール街に職場を求めた時代は過去の記憶となりつつあるが、近未来の物理学者は頭および他者との関係性に道を見出すだろう。自然に行けば、社会科学と、物理学に基盤を置いた心理学(それを非線型認知科学と呼ぶことができるだろう)は、もう一度、意図的に背を向けるだろう。もしその時に、間を繋ぐものがあるとすれば、もう一段か二段か高次化した人工知能倫理学(論理学ではなく)であると期待される。(そのときにのみ、アンバーは亡びの淵からよみがえり、オメラスのdilenmaは幸福のうちに解消されるだろう)

 

非線型性は物理学者の最後の隠れ家である。

小説 複素関数論・超解像顕微鏡・摂動論

複素関数論を使うことで波動関数からeventsの確率を計算することができる。「猫は生きているのか死んでいるのか」の確率がわかる。Welcome to the real world. そこで物理学者の卵は一所懸命に複素関数論を勉強する。ストークスの定理と留数定理。

 

波動関数が実測できる時代になった

http://blog.hatena.ne.jp/tnakamr/tnakamr.hatenablog.com/edit?entry=8599973812299463279

➡これと類似の現象を知っている気がする。超解像顕微鏡だ。光学的分解能の限界を破ることができるのは、画像の非線型な情報を使用するからだという。

 

➡では、波動関数の実測は何らかの非線型性により可能になっているのだろうか。ハミルトニアンの現実の記述は基本的に摂動論の考え方で遂行されるのだとすると(このあたりの理解は相当あやしい)、超解像顕微鏡での光学的分解能の通り抜けもまたある種の摂動論として理解できるのだろうか。やはり非線型光学が難しいわけだ。

 

追記:非線形の難しさのかなりの部分はおそらく自己相互作用にある。この記述が参考になる「実は一般相対論では、質量は難解で驚くほど理解し難い概念だ。その難しさは、この理論そのものが本質的に非線形であることによる。理論が非線形であるため、重力も非線形になる。そのため重力は自らと相互作用し、その仮定で質量を生み出す―扱うのが特別厄介なたぐいの質量だ」

カラビ=ヤウ多様体が唯一の解である - エヌ氏の成長・円錐

 

 「非線形な世界」も良書。http://blog.hatena.ne.jp/tnakamr/tnakamr.hatenablog.com/edit?entry=8599973812299463113

社会システム

今日書かれるブログの8割は、東北大震災から7年がたったことについてどこかに書いてあるだろう。私の場合、2011.3.11は、たまたま学生室で打ち合わせをしていたので難を逃れたが、居室にあった天井まであるスチールの本棚が私の机に倒れていて、部屋に戻って唖然とした。すごい音がしたはずだが、まったく気がつかなかった。

 

菅原潤の「京都学派」を読む。

 

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

 

 

京都で4年を過ごしたにしては私には京都学派について特別な関心はない。むしろ知り合いがいたこともあって、人文研や梅棹忠夫さんたちの知的営為の方に関心が深い。たまたま手に取ったこの本について、少し何か考えてしまったのはこの箇所があったからだ。

 

その前に「京都学派」は文学部や京都在住の人にはぴんとこない言葉だと思うので、著者の記述を参考に簡単に。京大哲学科の創設以来、西田幾多郎田辺元により築かれ、京大四天王(西谷啓治高山岩男、三宅剛一、上山春平)により継承・拡張された哲学グループの総称。弁証法を基軸とした透徹した論理的思考、東洋的(ないしは日本的)思想への親和性、(当時における)現代思想の批判的摂取などを特徴とするそうだ。

 

読んでいて私の中で急ブレーキがかかったのは後半で著者が引用している鈴木成高の言葉だった。1952年の鈴木の著書から。

「近代兵器が持つ殺戮性にたいし、これを防止する手段は、道徳ではなくてただ対抗兵器あるのみであることを、戦争の歴史はわれわれに教える。原子兵器もまた、同じ歴史を繰り返すべきであろうか。さしあたってまず原子兵器の場合には、それに対抗するなんらの科学的手段がないということによって、問題が特異の性格を有する。実はそのことによって決定的にアクセンチュエートされている。しかしこのことは大きな問題であるのでなければならぬ。兵器を兵器によって防衛することができないということは、言葉を変えれば、戦争を戦争によって防衛することができなくなってきたともいえる。そのことはすなわち、戦争がまさに限界点に達したことを意味する。そしたかかる限界状況においては、さらに原爆以上の強力なる兵器の出現をまってこれに対抗するというごときことは、もはや完全に無意味であるといわなければならぬ。ここにいたってわれわれはいわればならぬ。原子力時代とは、まさに兵器に対抗するために兵器以外のものを必要とするにいたった時代である、と」

 

この鈴木の意見を著者は現代に発展的に投射してこう書いている。

「この来るべき倫理の具体的なイメージを鈴木は語っていないが、『産業革命』に比肩される『文化革命』を通じて誕生する新たな倫理は、おそらくはリアル・ポリティクスを踏まえたテクノロジーの規制という体裁を整えると予想される」

 

いくつかの理由で、私は鈴木成高の問題提起の正しさを信じてたいと思っているが、著者の主張には必ずしも賛同はできない(もちろん言いたいことはよくわかるが)。資本論を引き合いにだすまでもないが、事実上現代の社会は政治も科学テクノロジーも大きく経済に引きずられる形で動いている。それが歪みなのか社会の自然な発展なのかは別にしたとして、サバイブのために、少なくともその3つのバランスを取り直す社会システムの構築がもっとも必要とされているというのが私の個人的意見だ。その社会システムは最低限「社会的配分と個人の内面の自由」を両立するべきだろう。ある程度公平な社会的配分がないとシステムは予想より早く崩れ対応できないだろう。個人の内面の自由がなければそうした努力をする意味がないだろう。このテーマを私はル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」を読んだことで学び、何度も思い返してきた気がする。

メモリは演算機能をもたない。しかし

森博嗣の最近の作品のパロディ風に(Ⅱ)

 

メモリは演算機能をもたない。しかし量子メモリというものを仮想するとそれは量子演算ができるのではないか。量子重ねあわせを使うことで相関から因果性を抽出または推定することができるのではないか。もし相関から因果性に行く一般的な経路が必ず非線形性を要するならば、実は因果推論とはサンプルの持つ非線形性を質的に異なる何らかのものに変換・翻訳していくプロセスと考えることもできるのではないか。

モデル構築についてのアイデア

森博嗣の最近の作品のパロディ風に

 

モデル構築とは、無数のモデルを逐次想定し把握し、それぞれの結果までの経路をトレースして、その結果を比較することで選ぶというプロセスをさす場合があるようだ。そこではデジタル的飛躍につづくアナログ的な(と見せかけて准デジタルな)トレースという作業がオートマテクに行われている。どうやらこれが人間の思考の一般的な型の一つであろうと推測される。これは唯一の型だろうか。これ以外の型としてどのようなものがありえるだろうか。あるいは変分法的思考形態が近いか。しかし変分法的思考とはこの場合どんなものだろうか。

村上春樹の3冊

よく晴れた一日で風も穏やか。今夜も大きな月が楽しめそう。

 

個人的には2017年の小説No. 1は村上春樹の「騎士団長殺し」だった。こういう内容の作品なのに読んでいる間に整った気持ちになるというのはずいぶん珍しい。いい絵と同じだと思うが、読んでいると気持ちが落ち着いてくるので5回は読み返したと思う。もう少し読み返してみないとわからないかなという気がしている。

 

大学3年生の時に、生協書籍部の文学コーナーに「羊をめぐる冒険」の表紙が見える形で並べてあったのを手に取って以来なので村上春樹愛好者になってから随分長い。個人的なベスト3は「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(順不同)だったが、2017年から「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」「騎士団長殺し」に変わった。

 

ダンス・ダンス・ダンス」は作者自身が「もう少し作品のねじを締めることができたのに、事情があって締め足りない状態で出版してしまったのが、かえってそれがある種の魅力になっているという読者がいる」と書いている。私の場合はまさにそうだ。ピニャコラーダ、五反田君が出るCM、アメとユキという具合にカラフルな小ネタがカラフルなリズムで並んで来る。この尽きない楽しい感じは恩田陸のいくつかの作品に似ているような気がする。小説としての格みたいなものは最近の大作には及ばないのだろうが、この楽しさは少し違う。

 

「遠い太鼓」は、村上春樹が「ノルウェイの森」を書いて2年くらいヨーロッパを転々としていた間の旅行記(みたいなもの)だ。はじめて外国で長く暮らす日本人には共有されるであろう「心もとなさ」「解放感」「憂鬱なもろもろ」などがクリスプな文章で記録されている。

この10年くらいは、海外の学会に出かけるときにこの本をバッグに入れる習慣になっている。私の場合、時差ボケもあって学会は3日くらいすると心身ともにへとへとになるが、そういう気分の時にこの旅行記/エッセイはぴったりはまる。学会場にはたいていabstract bookを読んだりするスペース(単なる広い階段のこともある)があるので、そこに座って10ページくらい読んでみる。点滴をうってもらった感じで、体と頭の奥の方でしゃきっとするのを感じる。村上春樹の旅行記はいくつもあるが、こういう用途に使えるのは「遠い太鼓」だけだ。屈託の具合だと思う。

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)