エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

光を描くときにタッチはむしろ邪魔になる

朝から有楽町に出かけて、フェルメール The Greatest Exhibitionを観る。2023年にアムステルダムで開かれた最大の展覧会の内容を記録したドキュメンタリー。非常に楽しめた。

フェルメールの名前を意識したのは35年くらい前に、友人に「北のモナリザ」(=「真珠の首飾りの少女」)という絵がオランダにあるのだと聞いた時だという記憶がある。10くらいしてスミソニアン美術館でフェルメールの画集を買って、学会出張の合間合間にページを繰っていて、「デルフト遠景」に巡り合った。これでフェルメール好きが確定した。15年くらい前に東京で「牛乳を注ぐ女」が展示されたときには用事にかこつけて京都から見に行った。

個人的な油絵の見方として筆触(タッチ)が気になる性分だ。これはゴッホや須田国太郎の絵が好きだからそうなったのだと自分で想像しているが、今回の映画でフェルメールの絵のいくつかをZoom upでじっくり見た時に、タッチとは全く別のところに魅力の核心があるのを認めて驚いた。光そのものを描くときにタッチはむしろ邪魔になるらしい。絶妙の設計で点描を入れていくことでマジックを生み出す。これは映画の後半でいろいろな形で解説されていたので腑に落ちた。

フェルメールの作品は37作あるそうだ。リタイアしたらトルコに遺跡を見に行きたいとずっと思っているが、オランダもいいなと思った。

 

長い19世紀と神経科学の歴史

数字上の19世紀は1801年から1900年までだが、1789年のフランス革命から1914年の第1次世界大戦の始まりまでを「長い19世紀」とまとめて考えると腑に落ちるという話がある。一般的なレベルで個人が意識されるようになる端緒としてのフランス革命にはじまり、人の本性の最悪なところが見えてしまう世界大戦までの126年だ。Rise and fall of individualsという言い方もできる。

この「長い19世紀」の黄昏に、神は死んで(ニーチェ)、精神分析と現代的な意味での神経科学が立ち上がったのは偶然ではないだろう。(そんなものがあるとしたら)現代神経科学の中心地はアメリカ合衆国だが、フーコー的な郊外の隔離型精神病院→ヨーロッパから一斉に移動した人たちにより精神分析が神経学を占拠→1970年あたりからの神経伝達物質の同定に代表される物質中心主義的神経科学への大移動→意識の数理モデルとデータサイエンスというきれいな4段階の切り替わりは「長い19世紀」が準備した、ということをとりあえずの作業仮説として少しばかり頭を整理してみたい。(今後追加する予定)

COVID-19の年だった2020年も最後の日

COVID-19の年だった2020年も最後の日。東京の感染者が1300人という知らせを聞いて家内と顔を見合わせる。

2020年はTwitterを使い始めた年だった。6月に再開された講義は全てリモートになったが、立ち話もはばかられる状況だったので何をどうしたらいいかがよくわからない。考えて阪大の菊池先生や学習院の田崎先生のTwitterをフォローしてその情報をもとに講義を試行錯誤していった。それでもまだ双方向にはなかなかならないのでそこは2021年の宿題。

2020年はラボとしてノックアウトマウスの論文をはじめて出した年になった。予想以上に大変だったがこれでかなり引き出しが増えたのでもう2本くらいはこれで書きたい。

 

2020年の収穫と言える本

1.西郷甲矢人、田口茂

頭をゆさぶられた本。一読したあとすぐにメモを取りながら読み返したが二度目は随分印象が違った。もう一度読み返して備忘のためにブログにまとめる予定。特に、量子力学の解釈を考える上でnon-canonical choiceが効いてくるというアイデアは驚いた。「自由は具体的な自由としてしかありえない」

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

 

2.シルクロード全史 ピーター・フランコパン

読み進めるのが惜しくて下巻は休み休み読んだ。特に第2次世界大戦のドイツ側の内幕を読んだのは衝撃だった。

3.さまよえる自己 内海健

「まなざしは自己に先行する」「忘れるがゆえに思い出すことが可能となる」

 

 

 

希望という言葉が背負える力

新型コロナウイルス感染症流行のはじまりのころに、小澤征爾が指揮するサイトウ・キネンオーケストラのマタイ受難曲をたまたま聴いた。名曲という話は耳にするが自分には縁のない曲だと思っていた。でも気がついたら2時間弱の演奏を一気に聴ききっていた。こういう状況が感受性をたかぶらせて受容の下地を作っていたのかもしれない。こればかりはこういう状況にないと身に染みてこないのだろう。以来、精神安定薬がわりに気が向いた時に聞き続けている。

 

アビジット・V・バナジーエステル・デュフロの「絶望を希望に変える経済学」を読む。この夫妻は2019年のノーベル経済学賞の受賞者だそうなので、知っている人は当然多いのだろう。非常に優れた本だと思う。

 

科学について理系文系という分け方におよそ意味はないが、社会が理系の科学の対象になることは統計や推定モデルを使ったsimulationやモデル化を除けばまずないと言っていい。生きづらい世界や社会になるほどその解決の方法を直接考察する社会科学は大事だと思う。思うが何だか物足りないと思っていたが、そういうもやもやした気持ちをけとばしてくれる本だった。

 

バナジーとデュフロの問題意識は格差拡大、後進国経済、社会の分断、貧困層のモラルなどに経済学、社会科学の視点から答えようというもので、トマ・ピケティなどと近い。

http://tnakamr.hatenablog.com/entry/20150104/1420364658

 

「事実から目をそらさず。見てくれのいい対策や特効薬的な解決を疑ってかかり、自分の知識や理解につねに謙虚で誠実であること。そしておそらく一番大事なのは、アイデアを試し、まちがう勇気を持つことだ。より人間らしく生きられる世界をつくるという目標に近づくために」

 

「最良の経済学は多くの場合に非常に控えめだと私たちは感じている。世界はすでに複雑で不確実過ぎる。そうした世界で経済学者が共有できる最も価値あるものは、往々にして結論ではなく、そこにいたるまでの道のりだ。知りえた事実、その事実を解釈した方法、推論の各段階、なお残る不確実性の要因などを共有することが望ましい。このことは、物理学者が科学者であるのと同じ意味では経済学者が科学者ではないこと、よって経済学には絶対確実と言えるものがほとんどないことと関係がある」

 

 

特にじんときたのはアメリカにおける不平等の拡大を「尊厳」という見方でとらえ直した第7章だ。

「この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳をもって生きていけるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題である」

 

発展途上国を旅して何度となく気づかされるのは、希望は人間を前へ進ませる燃料だということだ。抱えている問題でその人を定義することは、外的な条件をその人の本質とみなすことにほかならない。そのように扱われた人は希望を失い、社会に裏切られ疎外されたという感情を強く持つようになる。それは社会全体にとって非常に危険なことだ」

いちど今持っている枠を外して考えれば、たしかに希望という言葉が背負える力は大きい。

あてにならない予想 -「心」の装置とその理論、および非線型性への見通し

情報理論は、クロード・シャノン@ベル研が空からつかみ出した。フロイトのアイデアは面白くもあり受け入れがたくもあるが、情報理論の視点から見ると、フロイトの唯一の誤りは、われわれの「心」を作り出している装置をエネルギー制御のシステム(あるいはそれに似たもの)と考えたことにあるのだろう(時代的には当たり前だが)。

むしろ、「心」を作り出している装置を考える際のポイントはエントロピーではないか。あてにならない予想をすると、"実在の大きさ"を持たない情報空間の質(または量?)を記述するエントロピーの制御がポイントだったと21世紀後半の認知神経科学者は語るだろう。こころとは、形をもった非実在であり、同時にそれが他者を理解するための不可欠なパーツだとすれば、「こころ」とは無形の実在としてはじめて記述できる何らかのものであろう。その「もの」に存在とラベルをするか非存在とラベルするかはarbitraryなのではないかという気がする。

あるいは、こころとは非物理的空間ー直感に反し、本来、空間とは非物理的なものであろうと思われる。例えば大森荘蔵が論じているようにーに無言のうちに浸透する何かなのかもしれない。

非専門家の知識だが、現時点で科学的という意味で論じるに足る「心の理論」は、IIT、ドゥアンヌの「グローバル・ニューロナル・ワークスペース」、拡張する身体理論の3つある。「心」の装置は基本的にはエントロピー制御であると考えることが可能であれば、どの理論が正解であるにせよ、議論の落ち着く先はほぼ見通せるような気がする。スティーブン・ホーキングが切り開いた「ブラックホールからエントロピーが失われる/外に出てくる」という理論がこの来るべき次世代の「心の理論」に何かを示唆すると面白い(時間の非存在という最近の物理学の流れからすると、さほど突飛な話ではない)。ここでも再び理論のフレームワーク非線型性(特異点という表現が当たっているか)が表に出てくる。本来の意味での心理物理学(過去に出てきたその祖先が基本的に線型であったのに対し、これはそもそもの骨組みが非線型になっている)の出番だと予測される。

物理学者がウォール街に職場を求めた時代は過去の記憶となりつつあるが、近未来の物理学者は"自分のこころおよび他者との関係性"に道を見出すだろう。このまま自然に展開すれば、社会科学と、物理学に基盤を置いた心理学(それを非線型認知科学と呼ぶことができるだろう)とは、もう一度、意図的に背を向けるだろう。もしその時に、社会科学と非線型認知科学との間を繋ぐものがあるとすれば、もう一段か二段か高次化した人工知能倫理学(論理学ではなく)であると期待される。

ル=グゥインのSFが好きな人ならば、『風の十二方位』に入っている『オメラスから歩み去る人々』を覚えているだろう。

"そのときにのみ、アンバーは亡びの淵からよみがえり、オメラスのdilenmaは幸福のうちに解消されるだろう"

 

非線型性は物理学者の最後の隠れ家である。

脳は情動のインスタンスを生成する

2020年は1日、2日と穏やかな晴天。昨年末から土井コーヒーのドミニカ・リリオス農園を飲んでいる。独特の甘さと香りがある。

 

リサ・フェルドマン・バレットの「情動はこうしてつくられる」を読む。

 

 

濃厚な中身。ちょうど冬休みに入ったので、すぐに再読に入る。二度目はさすがに少しずつ整理できる。ようやく全体像が頭で結んだ時に「情動を含む人間の精神活動はこんなにもフォン・ノイマン型コンピュータの動作と違っているのだろうか」と思った。

 

この本は、情動を対象とした認知科学において、フェルドマン-バレットらがこの十年来主張している「構成的情動主義」を扱っている。著者の要約では「構成的情動主義」とはこのようなもの。

<目覚めている間は常に、 脳は、概念として組織化された過去の経験を用いて行動を導き、感覚刺激に意味を付与する。関連する概念が情動概念である場合、脳は情動のインスタンス(具体的な例、というほどの意味)を生成する>

「1990年代後半における シミュレーションの発見は、心理学と神経科学に新時代をもたらした。科学的証拠に基づいて、私たちが見る、聞く、触る、嗅ぐものは、 たいていは外界に対する反応ではなく、それに関するシュミレーションであることが明らかにされたのだ。先見の明のある科学者は、シミュレーションを知覚のみならず、言語、共感、想起、想像、夢などの心理現象を理解するための一般的なメカニズムとみなすようになった。常識的な考えでは、思考と知覚と夢はそれぞれ異なる心的事象だと思われる。だがそれらは全て、一つの普遍的な過程によって記述できる。シミュレーションは、あらゆる心的活動の基本をなし、脳がどのように情動を生成するのかという謎を解く鍵でもある。」

「脳内でどのように情動が作られるのか?。私たちは、予測をし分類する。他の動物と同様、 身体予算を調節するが、その場で構築する「幸福」や「怖れ」などの純然たる心的概念でこの調節を包み込む。そして私たちは、心的概念を他の大人と共有し、 子供に教える。かくして私たちは、全く新たなタイプの現実を構築し、大抵はその事実に気づくことなく、 その元で日々を暮らしている。」

 

「古典的情動主義」では、「生得的で普遍的な情動があり、健康な人なら世界のどこに住んでいようと、それを示したり認識したりできる」ことを前提にするが、そうしたヒトに普遍的な特定の(怖れや怒りや幸福)情動の本質、およびそうした情動に必ず伴う身体的指標は存在しないという観察(メタ分析)が、「構成的情動主義」の出発点であり、本質主義に基づく古典的情動主義とは反対の方向にどんどん進んでいく。その過程で、「偏桃体は情動の中枢である」とか「情動と理性の対立(好むように暴走しかねない情動を理性がコントロールすることでまともに生きていける)」、あるいはラットでの「恐怖条件付け」といった、情動を対象とした認知科学の古くから存在し、あるいは十年位まえに一世を風靡し、現在も分野の大勢が指示しているいろいろな主張や概念が問い直される。

 

フォン・ノイマン型コンピュータは、プログラムとデータが同じ記憶装置に蓄えられて動作するというものだ。この構成からわかるように、同じ入力がくれば同じ出力を出す。それを考えると、計算論的神経科学で情動を扱う難しさは何となく感じ取れる。現在は、その点を、ベイズ脳、予測符号化、自由エネルギー最小化といった道具立てで乗り越えようとしている(参考文献として、乾敏郎著「感情とはそもそも何なのか」)が、その計算論的神経科学と同じ動機で出発しながらも、」の出発点であり、構成的情動主義はより大胆なところに打って出ている。でも説得力はある。

 

今、手掛けている研究が情動と関わってくる可能性があるので、講義の勉強を兼ねて読んでみたのだが、予想していなかった大胆な内容でまだ咀嚼しかねている。

 

来るべきもの

なかなか晴れ間が見えてこないまま、そろそろお昼になる。

 

ロビン・ハンソンの「全脳エミュレーションの時代」を読む。

 

全脳エミュレーションの時代

全脳エミュレーションの時代

 

 

人工知能は長らく理系の人間のあこがれだったが、急に現実味を帯びてくると(あるいはそのように宣伝されると)人間の場所がなくなるのではないかと浮足立つ風潮もある。

この本では、大学で物理学と哲学を専攻し、ロッキードNASA人工知能の研究をしたのちに、経済学と社会学に転じた著者が人間→全脳エミュレーション(EM)→AIという時代の変遷の方がずっと現実的だと論じている。未来予測というのは(少なくとも本という形では)やりたくないものだがあえてやって見せているところにまず著者の使命感を感じる。いわゆるトンデモ本ではないが、かといって手堅いというわけではない。あえていうと警世の書というものか。

ハンソンは「従来のcodingの進捗率から判断する限り、このままの状態が続けば、AIのルートを介して人間レベルの広範な能力が手に入るまでには2世紀ないし4世紀がかかる」と考えている。こころのメカニズムを原理的に理解して構成するには2世紀ないし4世紀かかるという意味である。あと30年足らずでAIの時代が来るということには工学的な根拠がないとして、15個の根拠を挙げている。いわく「(1)60年にわたるAI研究の中で、高レベルのアーキテクチャはシステムの性能にわずかな影響をおよぼす程度だった。(2)新しいAIアーキテクチャの提案は次第にすくなくなっている。(3)アルゴリズムの進歩はハードウェアの進歩によって促されているようだ。..」

 

では、あと2世紀は人間の時代が続くかというかというとそうではないというのがハンソンの主張である。EMという言葉は初耳だったが、その要素はこの3つ((1)十分に高速で低価格のコンピュータ。(2)迅速かつ詳細で低価格の脳スキャン。(3)詳細かつ効果的な脳細胞モデル)で、特定の人物の脳を詳細にスキャンして、そのままコンピュータ上で動かす(emulateする)というのであれば、それはお馴染みの概念でもあり、現在の脳神経科学の大目標のひとつでもある。そういう想定を神経科学のsocietyがあまり積極的にしていないというだけで、AIの方向に進んでいるのと同じ意味で、その機は熟しつつある。

 

では、「いつ」かということになるが、それはひまごの時代(1世代を15-20年とすると、45-60年)で起きて、EMのスピードは人間のスピードの4倍から1000倍になると推測されることから、起きてしまって数年で人間は文明の主役の座をEMに渡すことになるとハンソンは予測している(こんなにhumidな言い方ではないが)

 

「エム(EM)と人間は、識別可能な多くの点で異なっている。人間と比べてエムは、神経過敏な傾向やセックスへの関心や死に対する拒絶感が弱く、自然との結びつきが希薄だ。外交的で実直、愛想が良く賢く、頭の回転が速くて有能で、正直で楽観的、幸せでポジティブ、穏やかで美しく清潔で、気配り上手で冷静かつ協力的で和を乱さず、我慢強く合理的で集中力がある。懐古趣味で落ち着きがあり、物静かで感謝の気持ちを忘れず、さまざまな試練を耐え抜いてきた。さらにエムは、記録や測定や価格付けの対象になる。周囲から信用され、宗教心があり、結婚し、年を取り、仕事中心の生活をおくり、猛烈に働き、自尊心や自己認識能力を持ち、法を守り、政治を理解し、社会とのつながりを維持する。健全な感情を抱き、感情の波がなく、貴重なアドバイスに耳を傾け、生活が朝型で、永遠の命を与えられている」

「一部の人たちは進化が集合的に制御されることを望まず、現代のような生物的に不適切な行動を称賛する。自分の嗜好と合わない未来が進化のプロセスで選別される可能性を受け入れるが、長い間好んできた行動を継続させたいと願う。歴史の大きなパターンのなかで一時的に出現した夢のような時代において、例外的な役割を引き受けていることを楽しんでいる。 しかしそれを認めるか否かにかかわらず、実際に私たちの時代はつかの間の夢の時代であり、おそらく長続きはしないだろう」

 

「脳が具体的にどのレベルまでエミュレーションされるのかという点に、私は特にこだわっていない。いずれにせよ、このようなタイプのテクノロジーは実行可能かつ廉価になることを想定している。「廉価」とは、人間並みのエムのレンタル料が、2015年のアメリカの週給の平均である800ドルよりもかなり安い状況を指している。この価格ならば、ほとんどの仕事に関してエムは人間と競合できる」

「全脳エミレーションは、ソフトウェアを1つのマシンから別のマシンに移し替えるようなものだ。ソフトウェアを移し変えるためには、新しいマシンが古い機械言語を模倣できなければならず、そのためのソフトウェアを開発しなければならないが、必要なのはそこまで。移し変えたソフトウェアがどのように機能するか理解することまでは求められない」

 

熱力学的に可逆なコンピュータ(エコなコンピュータ)についても緻密な議論が1章分展開されており、大変興味深い。

「computerが機能するためには、構造の位置決め、妨害の遮断、communication、エネルギー、冷却など、さまざまな種類のサポートが欠かせない。そのためには自由エネルギーが必要で、それによって、エントロピーを負にして乱れた秩序を戻してやらなければならない。これからこの分野の研究が進めば、数十年以内にコンピュータのデザインで革命が引き起こされる可能性は大きいだろう。この革命のあとには、多くの種類のコンピュータが熱力学的に可逆傾向を強めると考えられ、それはエムも例外ではないはずだ」

 

このあたりは私自身の問題意識とかなりoverlapがあり、勉強になった。

「人間の脳の老化の一部は、発達プログラミングと生物学的老化によって引き起こされる。これらの精神的老化の原因は、エミュレーションの対象に含める必要がない。エミュレーションされる細胞は老化を進ませず、発達プログラミングを遮断しなければならない。しかし、人間の脳の老化の一部は心の設計に本質的に備わっていると考えられる」

 

これは著者の好みでもあろうし、欧米人が今の世界をどのように(どのように苦々しく)見ているかのひとつの表れなのかと思う記述もところどころに顔を出す。

「今日では、国家間の価値の変動のおよそ70%が、たった2つの要因で説明される。しかもこれら2つの要因は、個人的な価値の変動の大半も説明している。まず、国家は主に富裕国と貧困国の間で異なる。…そしてもう1つ、今日の価値観の違いが、「東洋」対「西洋」という形でも表現できる。東洋の価値観においてはコミュニティが、西洋の価値観においては個人や家族が重視される傾向が強い」

これは現在の日本にはそのままの形ではあてはまるまいが。

「エムの所得は最低生存費水準に近いので、富のレベルが文化に変化を引き起こすとすれば、エムの文化の価値観は今日の貧困国の価値観に次第に近づくはずだ。今日では東洋の文化が急成長を遂げ、しかも密集した地域に浸透していることを考えれば、エムの価値観は今日の東洋の国々の価値観に近くなる可能性が大きい」

 

いろいろ書いてきたが、個人的に自分の中に興味深い論点として残ったのは下記である。こういってしまえば簡単だが、こう言えるほどの知識に人類が到達できるにはもう少しかかりそうな気がする。あるいは臨床家であればまた別の感想があるのだろうか。

「人間の心の設計に変化を加えて費用効率を高めるのは容易ではない。たとえば、心が過去の出来事を忘れず、記憶を間違えなければ理想的だ。すべての経験を完全に記憶できるような心を創造すれば、この目標を達成することは可能かもしれないが、それでは、心は記録された経験から多くを学んだり抽象化したりすることができない。結局のところ、経験から何かを学習したり抽象化したりするプロセスが人間の記憶を進化させてきたといってもよい。人間の心に若干の変化を加える程度で、抽象的思考と完ぺきな記憶力を一度に手にいれられるわけではない」