エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて14年めの分子神経科学者の日々雑感

村上春樹の3冊

よく晴れた一日で風も穏やか。今夜も大きな月が楽しめそう。

 

個人的には2017年の小説No. 1は村上春樹の「騎士団長殺し」だった。こういう内容の作品なのに読んでいる間に整った気持ちになるというのはずいぶん珍しい。いい絵と同じだと思うが、読んでいると気持ちが落ち着いてくるので5回は読み返したと思う。もう少し読み返してみないとわからないかなという気がしている。

 

大学3年生の時に、生協書籍部の文学コーナーに「羊をめぐる冒険」の表紙が見える形で並べてあったのを手に取って以来なので村上春樹愛好者になってから随分長い。個人的なベスト3は「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(順不同)だったが、2017年から「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」「騎士団長殺し」に変わった。

 

ダンス・ダンス・ダンス」は作者自身が「もう少し作品のねじを締めることができたのに、事情があって締め足りない状態で出版してしまったのが、かえってそれがある種の魅力になっているという読者がいる」と書いている。私の場合はまさにそうだ。ピニャコラーダ、五反田君が出るCM、アメとユキという具合にカラフルな小ネタがカラフルなリズムで並んで来る。この尽きない楽しい感じは恩田陸のいくつかの作品に似ているような気がする。小説としての格みたいなものは最近の大作には及ばないのだろうが、この楽しさは少し違う。

 

「遠い太鼓」は、村上春樹が「ノルウェイの森」を書いて2年くらいヨーロッパを転々としていた間の旅行記(みたいなもの)だ。はじめて外国で長く暮らす日本人には共有されるであろう「心もとなさ」「解放感」「憂鬱なもろもろ」などがクリスプな文章で記録されている。

この10年くらいは、海外の学会に出かけるときにこの本をバッグに入れる習慣になっている。私の場合、時差ボケもあって学会は3日くらいすると心身ともにへとへとになるが、そういう気分の時にこの旅行記/エッセイはぴったりはまる。学会場にはたいていabstract bookを読んだりするスペース(単なる広い階段のこともある)があるので、そこに座って10ページくらい読んでみる。点滴をうってもらった感じで、体と頭の奥の方でしゃきっとするのを感じる。村上春樹の旅行記はいくつもあるが、こういう用途に使えるのは「遠い太鼓」だけだ。屈託の具合だと思う。

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

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熱力学の第二法則を量子力学から導出する―物理的な時間概念の明確化へ―意識の中で流れる時間

秋空の美しさはあの雲の形によるのだと思う。


量子力学から熱力学第二法則を導出することに成功〜時間の矢の起源解明へ大きな一歩」
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a1e326855ceb0a640f75c08d2c0fb423

東大大学院工学研究科の沙川先生の研究室がPhysical Review Lettersに発表した論文の紹介がされている。


熱力学は現象論的理論であり、通常は公理の集まりから出発して体系を構成することをしない
(公理論的に構成できることもできる。私が知る限りでは田崎晴明先生の仕事)
熱力学の第二法則は、乱暴な言い方をすると「時間が不可逆に一方向に流れる」ことを要求する。

この熱力学は通常はやり方では統計力学の基盤の上に構成される。その際にいくつかの公理的仮定が置かれる。代表的なものが等重率の仮定。これを公理とすることで対象を正準分布するものとして扱えて、熱力学と同じ結論が自然に得られる。また、ここまでを完全に古典力学の範囲内で導出できる。


一方で、周知のように古典力学は時間に対して対称性を持つ。古典力学統計力学→熱力学という導出の順番をまじめに考えると、熱力学の第二法則が時間に対して対称性を持つことになる(と私は考えている)。その場合、エントロピーは現在から未来に向かって増え続けるが、同時に、現在から過去に向かった場合も増え続けるという状況を想像しなければいけなくなる。専門家の知人の話では、こういう方向に考えを進めた場合について一定の解決策は提案されているらしいが、ざっと説明してもらっても専門的過ぎてわからなかった。


どうやらこの沙川先生たちの論文によれば、熱力学の第二法則は量子力学(量子多体系の理論は触れたことがないので論文を見てもどの程度難しいのか具体的にはわからない)から証明できる。量子力学には時間的対称性が課されていないので(私はこう考えていますが、間違っていたら訂正してください)、上記のように考えなくてすむルートが見つかったということのようだ。


さて、実は私が考えたいのは神経科学認知科学、または哲学における時間の認識を、この仕事がどう変えるだろうかということだ。


「意識」の中で時間が流れる(したがって基本的にヒトだけが過去と現在と未来を持つ)ことは。現在の認知神経科学のかなりのメンバーの間で共有されているだろう。逆のいい方も可能である。時間が流れる形をとる認知が意識である(動物は計画できない)。
付け加えると、意識が進化の過程で発生したある種の仮想であるのか、それとも(概念的)実体なのかについては論争が行われている。

これまで、現実世界を記述する物理学が一方向的に流れる時間について十分にその構成の過程を説明できず、多くの場合、天下り式のパラメータとして扱っていたため(相対性理論の位置づけは難しいので、それはこの議論からは外します)、事実上、認知神経科学は時間に関して割と好きなことがやれていたわけだ。今回のような熱力学の第二法則を量子力学から導出するという取り組み(あるいはそれに道筋をつけた田崎先生のアイデア)が具体的な姿を取ってくるにつれて、人間の意識とは別のところで、物理的な時間概念が構成されることになる。それを受け止める形で、認知神経科学において、意識の中で流れる時間とは何だろうという議論が、これまでよりも強いリアリティをもって行われるのではないかと期待する。


一般的には、哲学の立場からも多くの語るべきことがあるのだろう(興味はあるが私にはわからない)

通奏低音としての核戦争

暖かい正月。箱根を走る選手も今年は寒そうに見えない。散歩する道にいつの間にか水仙が咲いているし、おそらく花粉も早めに飛ぶので早めに準備をしたほうがいいだろう。


クリフォード・D・シマックの「中継ステーション」を読む。

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

早川書房からシマックの「都市」が出たのは高校生のころだったか。SFもそろそろ卒業した気分だったので、「都市」にはまりこんだのは自分でも意外だった。そのころの最愛読書はP.K.ディックの「偶然世界」からシマックの「都市」に移り、長く「都市」のままで、大学に入ってA.K.ルグィンの「伝道の書に捧げる薔薇」に移っている。

「中継ステーション」はそのころから書名としては知っていた。早川書房から出ていたので読めたはずだが、読んだ覚えがない。今回の本の帯には『異星人たちと交流する、地球でただひとりの男がおくる驚異の日々』とあるが、その程度の惹句に腰が引けたとは思えないので、単なるタイミングの問題だろう。


原著が書かれたのが1963年。このころの日本が核戦争の予感に包まれたチリチリした時代の雰囲気だったことは内田樹さんの文章で何度も目にしているが、アメリカ人であるシマックの感覚でもやはり核戦争がリアルな生活感覚に入り込んでいるらしいのが、この本のあちこちにみてとれる。
私はこの年の生まれだが、自覚できる範囲では同じタイプの危機感はない。今思うといくつか「あれ」と思うことはあるのだが、何しろ鉄道の駅まで車で30分という田舎なのでテレビ番組からそれを感じるのは無理だっただろう。
ともかく、この「中継ステーション」を読んでいてずっと通奏低音のように感じられていたのは、「リアルな戦争」(小説の中の戦争ではない)の雰囲気で、それが長く印象に残った。

「都市」はおとぎ話のように聞こえるし、(今思い出すと少しばかり固いのだが)ユーモラスな話である。「中継ステーション」はある種のmanifestのようでもあるし、告白のようでもある。つまり、よりまじめである。これはなぜだろう。1963年はケネディ大統領暗殺の年だ。その頃の歴史的背景(キューバ危機など)で理解すればいいのだろうか。

きちんとトレースしているわけでもなんでもないが、すでにいくつか異星人ものは書かれていたはずで、(火星戦争は別としても)このテーマそのものが突飛すぎることはないはずだ。にも関わらず小説の面白さとはまた別に「何かいいたいのだろうな」ということが感じ取れる。これが個人的なことならば、現代の感覚からすると「またか」となるのだろうが、シマックが小説の形で伝えたいのはそれではないらしい。

まああまりまじめに考えるのはシマックの意図に反するのだろうから、楽しく読めばそれでいいだろう。

異端の統計学ベイズ

今日は昨日に続いて朝から良く晴れている。関東はこういう時に空の広さを感じる。


シャロン・バーチュ・マグレインの「異端の統計学ベイズ」を読む。

異端の統計学 ベイズ

異端の統計学 ベイズ

ベイズ統計学という言葉に接したのは10年くらい前で、共同研究していた部屋の助教ベイズの勉強をしていた。例を見て面白いとは思ったが、そのころは自分と関係があるとは思えなかった。

6年前に統計数理研究所で開かれた研究会で、招待講演者のK大の生物物理の先生が飲み会でも「ベイズは使える」「ベイズは生産性が高いのでどんどん論文が書けるようになった」と言っていた。少したってから共同研究者と話をしていると、一緒にやっていた仕事のモデル化のところをベイズの枠組みで書き直してみると非常に見通しがよくなるということを聞いて、彼の進めたところをわかる範囲で見てみると確かに何をやっているかがよくわかる。ベイズは使えるのか、と思った。

一方で、本業の研究でもデータの統計解析はこの数年で大幅な見直しが行われている。少なくとも自分のいる分野はそれなり以上の雑誌には、きちんと統計解析をやってことを自己申告するcheck listがついていることが増えた。このリストはいかようにも使えるので、業界で一応OKというレベル以上の統計解析ができるようになっていないと投稿さえできない時代に移りつつある。そして先を行っている人たちは機械学習ベイズ推定、あるいは因果推定を使いこなして、生産量を上げつつある(らしい)

大学院で実験手法関係の講義をしているが、この情勢を見て、得たデータを使った統計解析の講義を来年度から追加する予定にしている。ネイマン-ピアソン流の統計学だけなら1回(実験法なので、もちろんどう使うかに徹して講義をする)、ベイズまで教えるなら2回の予定。
 そのための資料として読んだのが、今回の「異端の統計学ベイズ」と「基礎からのベイズ統計学」だ。後者は2回目の読み直しをしているので後日紹介の予定。

「基礎からのベイズ統計学」はもともとW大の心理学科での講義を本にしたもので、お勉強する必要がある(その分実戦的)だが、「異端の統計学ベイズ」は特に予備知識なく、好奇心を持って読み進める。それでも、ベイズ統計学がどこから出てきたのか、なぜ暗黒の時代を経験しなければならなかったのか、この20年で爆発的に復権したのはなぜか、などの疑問を数多くの登場人物とエピソードで明らかにしてくれるので、「ベイズ統計学に親しみが持てるようになる」という意味では良書だと思う。ただし、ベイズを使えるようになるためには「基礎からのベイズ統計学」が同レベルの演習付きのの本はもちろん必要になる。でも何のためにこんな操作をしなければいけないのかがわかっていると演習が楽になるので、効果大だと思う。歴史好きなら読むのはほとんど気にならない。


ベイズの良い点
・概念的にすっきりしている点。特に下記のように枠組みがシンプルということもあるのだろうが、仮説が信頼できるかどうかを直接検定できるのは足元の安心感がある。ただし、これも事前確率についてどのような見方ができるかで意見がわかれるのだろう。

「数学の観点からも哲学の観点からも、ベイズの法則は簡単そのものだった。プラットいわく、「事前に意見を持ち、その意見に情報を加味して更新しない限り、事後の意見を持つことはできない」。だが、信念を厳密に量で表すとなると―これはやっかいだった。」


・一方にデータ(しかもその気になればnを増やせるデータであったり、性質上一回切りの場合もある)があり、一方にいくつものモデルがあり、そのモデルの間の比較をするというのは研究の現場からすると極めて自然である。

「これ(頻度主義=ネイマン-ピアソン流統計学)に対して、ベイズ理論を使うと、社会学者の直観にはるかに近い結果が得られるように思われた。ラフテリーは同僚に「いくつものモデルを比べることが重要なんだ。どれかひとつのモデルとデータとのちょっとした食い違いを探すというのではだめだ」と述べている。研究者たちが本当に知りたいのは、与えられたデータに対して、自分たちが考えたモデルのうちでどれがいちばん正しそうなのかということなのだ。ベイズの理論を使うと、ある安定した形状から別の形状への突然の遷移を研究することができる」

実は以下に書いてある「難しい積分をサンプリングで置き換える」というのが現代的なベイズ推定の肝で、「基礎からのベイズ統計学」で実例にあたって勉強してようやく実感できた。その後で、「異端の統計学ベイズ」を読み返すと、しっかりこのことが書いてあった。

・ゲルファンドとスミスは、・ゲルファンドとスミスは、難しい積分をサンプリングで置き換えるというこの手法が、ベイズ派にとってすばらしい計算ツールになることを見てとった。「統計学入門の講座で学んだもっとも基本的な事柄に立ち戻ることになるんだが、かりに分布や母集団について知りたければ、そこからサンプルを取ることになる。ただし、標本を直接抽出してはいけない」とゲルファンドは言う。画像統計学者や空間統計学者たちが局所モデルをまとめてみていたのに対して、ゲルファンドとスミスは長い鎖を作った方がいいということに気がついた。手法が、ベイズ派にとってすばらしい計算ツールになることを見てとった。「統計学入門の講座で学んだもっとも基本的な事柄に立ち戻ることになるんだが、かりに分布や母集団について知りたければ、そこからサンプルを取ることになる。ただし、標本を直接抽出してはいけない」とゲルファンドは言う。画像統計学者や空間統計学者たちが局所モデルをまとめてみていたのに対して、ゲルファンドとスミスは長い鎖を作った方がいいということに気がついた。

明らかに役には立つのだが、来年度の講義に入れるかどうかは思案しているところ。

旅の終わり

2週間あまりの旅を終えて、組長は無事に帰国。


アエロフロート機内食は意外といけるらしい。


次は大英帝国征服か?

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グッバイ スペイン

スペイン最後の一日はマドリッド観光。

王宮、プラド美術館、お土産の買い物を済ませて、


晩御飯をまたたらふく、

そしてこれがたぶん最後のチュロス。グッバイ スペイン

意識というスポークスマンと脳という巨大組織

秋晴れ。昼ごはんは早めに歩いて蕎麦屋に行って、ミニ穴子丼もり付きを食べる。彼岸花があちこちに咲いている。


私はシステム神経科学認知心理学の畑の人間ではなく、隣の畑を耕す人間の立場で、意識の研究に注意を払ってきた。


その中で特に強く印象に残っている本がある。
・コッホの「意識をめぐる冒険」
チャーマーズの「意識する心」
この2冊が、現代科学としての意識研究の源流になっているとすると、


最近のこの分野の「ライジング」を象徴的に示すのが
・トノーニの「意識はいつ生まれるのか」
この本だと思う。


そして今回読んだのは、「意識はいつ生まれるのか」に匹敵するインパクトがあり、面白いことに
トノーニの本と相補的な価値を持つスタニスラス・ドゥアンヌの「意識と脳」だ。

意識と脳――思考はいかにコード化されるか

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


この本で問題にされるのは次の問いである。

「『意識の本質は何か』『脳の同期した活動からいかに意識が生じるのか』『意識はなぜ、特有のしるしを示すのか』」

これに対して、認知心理学認知神経科学)の巨人であり、意識についての「グローバル・ニューロナル・ワークスペース」理論の共同提唱者であるドゥアンヌの答えは、簡単に言うと、『意識はグローバルな情報共有である』というものだ。


もちろん、これが現代科学である理由は、この本の中に形而上学や哲学は意識研究の歴史に言及するときにしか顔を出さず、fMRIEEGなどの計測とマニアックでしばしばトリッキーにさえ見える実験心理学の組み合わせで肝の部分が証明されているというところにある。もちろん推測に過ぎない部分は「推測」と書かれているが、記述としては2−3割(あるいはもっと少ない)のではないか。

「コンシャスアクセスが続く間、ワークスペースニューロンは、その長い軸索を利用して情報を交換し合い、一貫した解釈を得るべく同期しながら大規模な並行処理を実行する。そしてそれらが1つに収れんするとき、意識的知覚は完成する。その際、意識の内容をコード化する細胞集成体は脳全体に広がり、個々の脳領域によって抽出される情報の断片は、全体として、個々の脳領域によって抽出される情報の断片は、全体として一貫性を保つ。というのも、関連するすべてのニューロン間で、長距離の軸索を介してトップダウンに同期が保たれるからだ。この仕組みでは、ニューロンの同期が鍵になると考えてよいだろう」

コンシャスアクセスはドゥアンヌの造語で、ほぼ「意識」と同じことを意味するが、「気づき」をより強調した言葉だ。


科学的な正確さを少し犠牲にして、たとえ話にするとこうなる。

「意識は大組織のスポークスマンのようなものだ。1000億のニューロンという膨大なスタッフを抱えた巨大な組織として、脳には、それに類似する情報の要約メカニズムが必要とされる。意識の機能は、最新の外界の状況を要約した上で、記憶、意思決定、行動を司る他の全ての領域に一貫した方法を介して伝達することによって、知覚を単純化することにあるのかもしれない」


ひどく印象的だったのは、人間の思考過程はベイズ推定であるといわれることが多いが、その見方について非常に的確で(個人的には)意表をついた理由づけが可能だというここのくだりだ。条件付確率(主観確率)をこう解釈できるというのは、一度そういわれてしまうとそれ以外の説明が色あせるほど的確だ。

ベイズの決定理論は、同じ意思決定のルールが、自己の思考と他者から得た思考の両方に適用されるべきであると考える。いずれのケースでも、最適な意思決定を下すには、すべての情報がただ1つの決定に集約される前に、内的か外的かと問わずおのおのの情報源を、信頼度の評価を通して可能な限り正確に重みづけなければならない」


先行研究に対して、ドゥアンヌらの仕事との関係を明確にしているのはこのようなところである。

・まず、コッホのNeual Correlates of Consciousnessについて

「これらの観察結果は、「真の意識のしるしと、単なる意識との相関事象を区別しなくてはならない」という、非常に重要な結論を導く。意識的な経験をもたらす脳のメカニズムの解明は、ときに「意識に相関する神経活動(NCC)」の探求と呼ばれるが、この言い方は不適切だ。相関関係は因果関係ではなく、したがってそれだけでは不十分である。至って多くの脳の事象が意識的知覚に相関し、先に見たように、それには刺激自体に先行し、それゆえ意識のしるしとは論理的にみなしえない変動のようなものも含まれる。われわれが探し求めているのは、脳の活動と意識的知覚の統計的な相関関係だけではなく、被験者の報告する主観的な経験を完全にコード化し、意識的知覚が生じた時には出現し、生じなかった時には欠落する系統的な意識のしるしなのだ」

・次にチャーマーズのハードプロブレムについて

「私の見るところ、チャーマーズはラベルを張り替えたようだ。難しいのは実際には「イージー」な問題であり、ハードプロブレムが難しく思えるのは、不明瞭な直観が関与しているからだ。認知神経科学とcomputer simulationによって私たちの直観がひとたび訓練されれば、チャーマーズの言うハードプロブレムは消えてなくなるだろう。いかなる情報処理の役割からも切り離された純粋な心的経験としてのクオリアという仮説的な概念は、19世紀の生気論のごとく前科科学時代の奇妙な考えとみなされるようになるだろう。生気論では、生物の化学メカニズムをいかに詳細に知ろうが、生命の特質は決して説明できないと考えられていた。現代の分子生物学は、細胞内部の分子機構によっていかに自己複製する自動機械が形成されるかを明らかにすることでこの信念を打破した。同様に意識の化学は、ハードプロブレムを徐々に解体していき、やがてこの問題は消滅するだろう」


非常に内容が豊富なので近いうちに再読したい。